インクナブラ

 主に創作小説を掲載します。

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夜明けのエディプス・2 

 1はちょっと量が多かったような……。
 とりあえずめげずに以下続き。

 僕はバケツと柄杓を手にして中庭に向かう。水撒きをはじめてからはまだ三十分くらいしか経っていないけど、陽射しはますますその勢いを増して地上を焼いていた。太陽はその正体を隠すようにかがやいて、影にしか見えないとんびをその光線で貫いている。
 と、草を踏む音を聞いたと思った瞬間、ふいにその視界がかげった。僕よりもはるかに背の高い誰かがそこにいるのだと、一瞬気がつかなかった。
「あ――」
 逆光で造作のうかがえないその影が祖父だ、と気づいた僕は、反射的に門のほうを確認して、妹たちの姿を探した。だが妹もその友人ももうそこにはいない。だから僕は安堵する。安堵して、僕の目前を通り過ぎた祖父の背を追った。
 短い眠りから目ざめたあとの祖父が向かう先はわかっている。中庭の奥にある道場だ。門弟をとらなくなって久しいその道場を使っているのは実質僕と祖父の二人だけで、痴呆に脳をおかされた祖父が、今でもはっきりと意識を持って向かう場所はそこ以外にない。少なくとも僕はほかの場所なんて知らない。
 僕は距離をとって、妹よりもさらに高い位置にある祖父の背を追う。祖父の意識はもう長いことはっきりしていないはずなのに、それでもその歩みに危なげなところは見えなかった。

 この祖父を殺せるだろうか? と僕は思う。

 いつからか、あるいは生まれたときから、僕はずっとそのことについて考えている。最初は夢想だった。だけどそれは時間が経つにつれて、つまりは祖父が僕に刻む傷の数が増えるにつれて、かたちを持たずにはいられなくなっていったのだ。
そしてかたちを持ってしまった思考は、僕に具体的な対処をせまっている。どうにかしろ、とそれは僕にささやく。どうにかしろ。
 でなければ、死ぬぞ?
 植木の世話を怠られた中庭を歩く。伸びっぱなしの雑草はしめって、濃い草の匂いを立ち昇らせている。くるぶしに湿り気を感じながら、僕は祖父の後についてゆく。
 正気を失って以来――そもそも祖父に正気などというものがあったかどうか、僕は自信が持てないけど――苛烈さを増して手加減を失った暴力は、今や切実な危機だった。骨の折れる音は、僕にたやすく死を連想させた。だから妹の言葉だっておおげさでは、全然ない。先月ろっ骨を折ったときだって、実際のところ肺に刺さりでもしていたら僕の命は危なかったのだ。
 ずっと、傷は癒えるより先に重ねられるように増えてきたし、これからも増えるのだろうと思う。体の傷ばかりじゃない。父が僕をうとんだとき、祖父が祖父ではなく僕の父なのだと知ったとき、そして祖父の暴力のままに祖父と通じる母にどうしても触れられなくなったとき……そういう祖父にまつわる事実が、僕を毀れさせていく。毀れた欠片は足下に落ちて、今だって僕の足を傷つけている。
 だけど、そこから逃げるわけには行かないし、逃げられもしないんだ、と僕は思う。暴力というのは、他のあらゆる発信行為よりも効果的に、僕をいましめる。体も、心も。かつては今ほど頻繁ではなかった、だけど恒常的に行われた『躾』は、僕に抵抗するという選択肢を与えもしなかったのだ。
 祖父が僕をしばった見えないいばらの鎖は、僕を強く強くいましめて、そのとげは深く深く僕に刺さって、抜けない。
 五歳か六歳か、初めて木刀を手に道場に立ったとき、祖父はまだなんの障害ももってはいなかったけど、冷静のままに僕が失神するまで『稽古』を続けた。「しつけだ」と記憶の中の祖父は言っていた。たしか、せっかんだったのだと思う。口の利き方をまちがったとか、料理を残したとか、その程度のことにたいする罰。
 泣いても謝ってもだめなのだ、と理解するまでには時間がかかった。だから、僕が子供のときいちばん多く言った言葉は「ごめんなさい」だったと思う。ごめんなさいごめんなさい、と僕は泣きながら言う。もうしません、だから許して、と。
 だけど祖父は許さない。言葉に何らの価値も見出さず、ただ機械みたいに僕を痛めつける祖父は、絵本に出てくる怪物よりずっと具体的な恐怖だった。だいたいにして現実的な痛みというのは他のあらゆる抽象をあっさり駆逐するから、僕は夜も独りもこわくはない子供だった。ただ、祖父が、祖父の与える痛みが怖かった。
 そして僕と祖父が今立っている道場も、僕の中で長く恐怖としてありつづけている。僕の血と汗と涙と反吐がしみこんだこの場所は、どんな暗がりより、僕の中で冥い位置にある。
「お祖父さん」
 返事がないことを知っていて、僕は道場の中央で忘我している祖父に声をかけた。
 そして、やっぱり返事はない。紡いだ言葉はうつろに道場の中で反響して、蝉時雨にまぎれて拡散してしまう。
 もうずっと意味の取れる言葉を話していない祖父は、この場所で木刀を握ったときだけ、ごくたまに意識を取り戻すことがあった。かすみがかった眼に、光が戻ったように見えるときがあるのだ。といってもそれは僕の印象にすぎない。他の誰にもこのことを話したことはないし、話して同意を得ようとも思わない。
 祖父には狂ったままでいてもらわなくちゃいけない。
 道場の構造は、そのあたりの学校にある柔剣道場をふた回りほど縮めたような構造で、作られた年代は僕が生まれるよりもずっと前だ。だから壁にはところどころ穴が空いているし、最近になって付け替えた天井の電灯は光景の中で浮いてもいた。
 この場所で、祖父は古い記憶の中に生きているのかも知れない、と僕は何となく思った。そこには、僕だって数えるほどしか見ていない祖父の笑顔があるのかもしれない、と。
 祖父が僕を振り返る。
 そしてもう僕を見てもいないくせに眼球に僕の姿を映した祖父の顔は、やっぱり白痴のそれだった。口は半開きで、記憶の中でいつでも鋭く引き絞られていた眼はうつろ。
 その手の中にある木刀の握りだけ、いつだってたしかだった。
 体を軋ませるように歩いて、こちらに近づいてくる祖父に、僕はどうみえているのだろう? かつて祖父が腕を切り落としたという父だろうか? それともまだここが時代遅れの道場としてにぎわっていたころ、門下生としてこの場にいた僕の知らない誰かだろうか? あるいはもっとべつの、打ち据えるべきなにか、
 壊してもかまわない玩具のようにでも、見えているんだろうか?
 それでも構わない、と僕も壁に立てかけてある、安物の赤樫の木刀を握る。どうだってかまわない、と思う。重いながら構えて、近づいてくる祖父の暴力に備える。
「…嘘だな」
 呟いて苦笑して、僕はその欺瞞をみとめた。備えることなんて、僕はまるで出来ていない。祖父の暴力は、僕の中に深く刺さりすぎている。へたに抜くことは出来ないし、それを抜こうという思考が僕の中で斬り捨てられて、もうずいぶんと経ってしまっているのだ。
 間合いが近づくにつれて、祖父の呼吸のリズムが切り替わる。歩法が変わる。頭も体の軸も揺れない、頭頂から股間までを一本の串で刺されたように、その線はぶれなくなる。頭がうまく働かなくたって体が覚えている、まさにそういうことなんだろう。

 間合いに入る。

 尋常な状態ではなくなった祖父と僕との稽古は、いつだって唐突に始まる。祖父は今や、手に得物を握ればそれを暴力に向けることしかできない状態だった。だから自然、祖父がその手に刀を握るときには、僕が傍にいなくてはならなくなる。
 祖父をどこかの施設に預けるという話は、ずっとこの家では伏せられていた話題だった。どこかにしまい込んでなかったことにしてしまうには、祖父の存在はあらゆる意味で大きすぎたのだ。だけどそれもそろそろ限界だ、と僕は感じとっていた。
 遠からず、祖父は人を殺す。あるいはもう既に、誰かを殺しているかも知れない。何も判らないままに夜歩いて、持ち出した刀をつかってどこかの辻で人を斬っているかも知れない。ばかばかしい、とそれを一笑にふせないのが、今の祖父だった。
 だから、すべてが手遅れになる前に、僕は僕を始めるために、祖父を終わらせたい。
 今日は殺せるだろうか、と僕は自問して、逆青眼に構えた切っ先の向こうに祖父の姿を照準する。祖父の頭は見上げるほどに高く、懐は目が霞みそうなくらい深い。遠い、と直感した自分に気がついて、僕は舌打ちした。
 呑まれてる。
 その自覚と同時に跳ね上げられた祖父の切っ先は、僕のこめかみを狙っていた。鋭い、脊柱を鷲づかみにされたような冷たい心地を感覚しながら、僕は首を逸らしてその一刀を躱す。黒檀の木刀は重い。だけど祖父の振るう一撃はその重さなんてないみたいに速く、鋭い。
 ただの一合で、僕の意識はなんとか切り替わった。素足の下に床の固さを踏みしめながら、鋭く祖父を見据える。
 ここからは命がかかる。
 切り返された一撃の軌道に木刀をこすらせながら体を移し替えて、僕はしならせた右手の一刀で祖父の首を刈る。だが浅い。祖父はあっさりと頭を逸らすとその一撃を躱した。なんのためらいもない、まるで未来が見えているような動きは、だけどかつてからすれば見る影もなく衰えている。
 祖父は劣化している。
 右手に落下を加速された打ち下ろしの一閃をさばきながら、僕はいけないと思いつつもその思考にとらわれていた。まともに打ち合えばあっという間に負ける。それはわかっている。だけど、今の祖父に克てないとは、もうどうしても思えなかった。踏み込めば。あとひとつ、踏み込むことが出来れば、そのときはすべてを終わらせることが出来る。僕にはその自信があったし、それをやれるだけの時間の裏打ちもあった。
 だけど、それができない。
 ためらわせているのはあるいは恐怖で、あるいは緊張で、あるいは怯懦だった。祖父への恐怖、殺人の緊張、そして終わらせる事への怯えだ。
 それは、祖父が異常の片鱗を見せてから、いつだって僕の中から消えない問だった。僕の名前を呼ばなくなった祖父にまず愕然として、それから僕は思ったのだ。ただ耐えるだけの日々を終わらせる目算が、これでついた。だけど――
 それをして、どうなる?
 そもそも僕は、祖父が憎いのか?――それさえも、僕にはよくわからなかった。祖父が僕に与える痛みは怖い。だけど、祖父は祖父だった。最初からその位置にいたのだ。それは受け入れるべきものであって、そういう意味では、僕は祖父に裏切られたことなんて一度もないのだ。
 それでも、この痛みだけはいつまでたったって受け入れることは、出来ない。
 答えが出たって、迷いは断ち切れないままだ。なにか。僕の中の何かが、ためらう理由なんてないはずの行為をためらわせていた。そうしている内にも繰り出される祖父の打突は一振りごとに鋭くなって、避けるのが難しくなってくる。振れば振るほどに、かつての勘を取り戻しているのだろう。
 やせ衰えた祖父の体が、自らを嘆くように猛然と木刀を振るう。
 僕は道の真ん中で立ち尽くしたまま、どうしても最後の一歩が踏み出せない。何をするにも、もう遅いと思ってしまった。鋭さを完全にとり戻した祖父の剣に、僕は治ったばかりのあばらの軋みを意識する。その真新しい痛みの記憶を思い出してしまう。体は萎縮して動かなくなる。ああ、と思った。ああ、まただ。
 また、僕は痛みを受け入れようとしている。

 右手の握りに黒い木刀が食い込んでいくのを目にしながら、僕は間抜けな自分を呪う。

「あ――っつ、うぅ……」
 カランと音を立てて木刀が床を転がった。僕は床にひざまずいて右手を押さえ、うめきながらうずくまる。暑さのせいじゃない脂汗が、じわじわと全身ににじみだしていた。
 右手の人差し指と中指が、いびつに折れ曲がっている。
「はっ、はっ、ぁ」
 痺れるような痛みに喘ぎながら、僕は僕から関心をなくして去っていく祖父の姿を見送っていた。汗が目に入って視界がにじみ、涙が流れる。僕は折れた指を強く握りしめて、よくわからないものを罵っていた。意味の取れない呪いを口からこぼして、額を強く床に打ちつけた。
「くそ、くそ、くそ……」
 涙を流しながら、噛みしめた唇から血の味を舐めとりながら、僕は心底から僕を唾棄する。安堵している自分を殺そうと思う。どうして。と僕はひときわ強く、床に頭をぶつける。どうして、今さら停まったりするんだ?
 祖父には僕が必要なんだから、このままでいいなんて、そんなこと、僕は思って……ない、のに。

 「畜生」と僕はつぶやいて、そのまま少しの間、泣いた。




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[ 2005/12/17 22:53 ] 夜明けのO | TB(0) | CM(0)
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