インクナブラ

 主に創作小説を掲載します。

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弧人の群4.5(未決定稿) 

 スクライドを全話一気に見て大喜びしたので、言い訳はしません。気に入らなくて書き直してたら遅くなりました。でもこれもHTML版では書き直すかも。説明パートって難しい。量が増えだしたのも痛い……。果たして目標ページ内でおさまるかっ。

 本編のほうはだんだん登場人物が増えてきます。ろぼろす(前ふりなしで明かされる小題)は基本的にそれぞれの勢力がコンビで動く話なのだった。
3.まれびとたち


 世界中に散在する国家・都市・管区間を行き来する手段は、十五人の魔女を頂点に構成される境界学派(ヘクセン・セクト)が編んだ『境界議定(ヘクサ・プロトコル)』によって厳密に規制されている。古来魔女たちは統治せず君臨しなかったが、一定の条件を満たした共同体に対しては必ずこの議定書に批准することを要請した。
 この『境界議定』も学派それ自体も、あまりにも古くから存在したために誰もその正確な由来を知らない。しかし魔女を自称する彼女らを拒絶する勢力は当然過去にいくつも存在した。そもそも軍勢も確たる領地も持たない怪しげな集団の一方的な通告に、諾々と従ういわれなどどこにもないのだ。

 議定書に准じないことそれ自体は学派の逆鱗に触れるものではない。しかし、議定書に明記された条項に違反した場合、学派は間をおかず例外なく当該共同体に苛烈な罰を課した。魔女は兵馬を持たなかったが、圧倒的な武力を有していた。ある時は都市がひとつ消滅したし、ある場合には国そのものが亡んだこともあったかもしれない。魔女は通常ヒト全体に益する行為を主にする存在だったけれど、『境界議定』を侵すものにだけはなんの容赦もしなかった。

 肝心の議定書の内容は実に簡潔だ。要諦はたった三つで事足りた。ひとつに『学派が指定した禁域を(これは必ずしも地理的な事柄に限らない)侵犯しない』こと、ふたつに『学派総体はいかなる勢力にも属さない(ただし個体はこの条項に依らない)』こと、そして最後が『学派は通称〝弧人〟と呼ばれる生体を社会的成員として含有する共同体をいかなる理由に於いても認めない』というものである。

 流通や交通に関しては最初の条項の範疇となる。条文の中で触れられている『禁域』の中で、もっとも人々にとって身近なのは、『外郭』と呼ばれる、生活圏や都市を取り囲む椀型の地形の外縁をなす山間部の奥まった部分と、その上空だ。もっともこの条項に関してはあってもなくてもあまり意味はないのが現状だった。脈々と続く嶄絶たる山々を頻繁に越えるには、人や動物のつくりは脆すぎる。好き好んで山越えをはかるのは酔狂だけだ。

 代わりに利用されているのが、土地と土地を繋ぐ大運河。
 あるいは誰が開通させたとも知らない、樹脈のように地下に走る『坑道』だった。


――――

 ぎこちない二人組が、地下を歩いていく。

「じき地上ですかね」松明の明りに照らされた地図を睨みながら、方国兵部省所属の辺境武官・秦野伊周(ハタノコレチカ)が呟いた。

「地図でそうならそうなんじゃないの。これだけバカ寒いのにまだまだ遠いってことはないでしょう」

 同治部省玄蕃寮(げんばりょう)所属の寮掌・蘇我愛媛(ソガエヒメ)は口調に疲労を滲ませて、投げやりに答える。手袋越しに触れた発光壁には、結露の痕跡が見つけられた。湿気も強く、視界が届く範囲だけでも少し見渡せばあちこちに苔が群生しているのがわかる。地下水流が近接している坑道に独特の光景だった。

 二人が歩くのは、うす闇にほの青い天然光のぼうっと灯る、地中にくり貫かれた人為の回廊、規模としては最小に属する坑道の中途だ。学派が自らの名義で発行している、世界各所を連繋させる坑道を網羅した地図にも載っていない、いわゆる隠し坑道のひとつだった。

「どちらにせよ、そろそろ国境は越えるのかな。次に地上に出たらすぐ関所だろうから、色々準備しときなよ。あなた、都市の外に出るのは初めてなんでしょう?」
「正確には、国外に出るのが初めて、ですね」

 緊張した面持ちでそう答える秦野は、愛媛より三つ四つ年下の青年だった。ただし女性としてもかなりの小柄である愛媛に比べれば背丈は頭二つ分ほど高く、体つきは比較にならないほどがっしりとしている。体力に関してはそれなりの自信がある愛媛だったが、現役の軍人を前にしてはその根拠も揺らがざるをえなかった。自分ばかりすっかり大きくなりやがって。そう愛媛はわずかに嫉妬を抱く。

「手形はちゃんとあるんでしょうね? 月見里塞(やまなしとりで)を出てからは七日、都を出てからはもうだいぶ経つけど、ちょっとここまで順調すぎて、そろそろ何かありそうって感じなんだよね」
「外交官がそういうこと言うと、実現しそうで嫌ですね」
「どういう意味よ」と眉を集めながら愛媛。「まさかあなた、わたしが魔女だなんていうくっだらない噂信じてるんじゃないでしょうね」
「……まだそんなの気にしてるんですか」
「当たり前だよ! もう、あのアホ兄のせいでどれだけ肩身の狭い思いをしたことか……!」

 多少本気で憤慨しながら、失言に苦笑いする秦野を睨みつける。愛媛が女だてらに官吏を目指しはじめたころ、大学内で『蘇我氏の末姫殿下は子供の頃から姿が変わってない』という流言が広まったことがあったのだ。噂を広めたのは、何を隠そう愛媛の実兄だった。
 それだけならばまだ身内の中での悪ふざけで済んだかもしれない。しかし前後して奇蹟寮に査問を受けた当時十代半ばの愛媛にとっては、笑いごとで済ませられる話ではなかった。
 秦野はそんな愛媛の心境も露知らず、平和そうに笑うばかりだ。再会した当初は久方ぶりの愛媛との距離感がつかめなかったのか、ずいぶん緊張していたようだったが、さすがに同道して七日も経てば気安くなってくる。愛媛としても、公私混同は好かないとはいえ、弟分にそう恐縮されてもやりにくいため、あえて注意はしなかった。

「いいじゃないですか。未来の卿宮さまにもお茶目なところがあるもんだって、おれらの周りじゃだいぶん好評でしたよ」
「おめーら下っ端に人気でもわたしの腹の虫は全くおさまらないんだっつーの。ってちょっとちょっと、地図明りに近づけすぎ! それ図書寮からかっぱらってきたんだから! 燃やしたりしたら超怒られるんだよっ!」
「あ、すいません」

 愛媛は嘆息し、荷物を背負いなおして壁面を仰ぐ。分家の一員である秦野との親交は足掛け十年以上にもなる。今回の任務で同行する護衛が彼だと聞いたときには、姉のような心持ちで成長振りに期待したものだった。しかし任官から丸一年を経てもまったく洗練されていないその鈍重さには失望を禁じえない。なんだかなあ。こんなんで武官なんて務まるのかね。再会から一週間の旅程で何度そう口にしたか、もう愛媛はおぼえていなかった。
 だいたい護衛が彼一人というのも解せない。玄蕃寮の公務が秘匿されるのはいつものことだが、それだけに外交官の護衛には精鋭が任じられるのだ。愛媛にしても、たった二人だけで国外に行脚するなどといった経験は、実のところ初めてだった。

「吝嗇っていうのとも違うんだよな。廃寮されるってひょっとして本当なんかね……」

 その真偽はともかく、予算が縮小されているのは事実である。

「無職になったりしたら、……即降嫁だろうなー。もう若いっていうにも無理があるし……」
「なにか言いました?」
「別になにも」先行する背中に素っ気無くそう告げて、愛媛は先々の苦労に思いを馳せた。
「元気ないですね。疲れてるんじゃないですか? なんならちょっと休んで……あっ」
「なによちょっと、急に止まらないで。あんた図体ばっかり大きいんだから、道が塞がるでしょ」
「いや、すいません……気が利かなくて」のそのそと歩みを再開した秦野の口調はどこか気まずげだった。「そうなんだ、女性なんですからね、外交官は。男所帯だったもんで、おれ、どうもそのへん疎くって。すいません」
「……ははは」

 秦野が何を邪推しているかを悟って、愛媛は笑った。笑声はいくぶん乾いている。正直手が出かけていたが、というより禁中にいたころの二人であればそうなっていただろうが、愛媛は久闊を叙したばかりの秦野伊周に対しての振る舞いが奔放にならないよう自制していた。なんといっても愛媛の任務は部外秘である。それは護衛である秦野に対しても適用されるのだ。だからあまり気安くしすぎて、若い頃の調子で慣れあうのは職務に支障が出てしまう。愛媛は少しばかり頑なにそう考えていた。

 よって会話も実を結ばないものが多くなる。中身のない軽口を叩きあいながら、二人はさらに坑を進んでいった。そのうちに水場から遠のいたのか、湿気は徐々になくなっていった。ただし道行きは上下左右を問わず折れ、また多岐に渡っていて、延々と徒歩で進むのにはずいぶん骨が折れた。実際、ひどく低い外気にもかかわらず愛媛の体はうっすらと汗ばんでいるくらいだ。

「前々から思ってたんですけど、坑道って不思議ですよね」ふと思いついたという口ぶりで、秦野が呟いた。「おれ、演習で山岳地帯に行ったこともあって、そこで洞窟や岩陰なんかも見たんですけど、坑道とは全然違ってました」
「そりゃそうだろうね。洞窟ってどんなふうにできるか知ってる?」
「いや、知らないっす。無学なもんで。初めから穴が開いてた……わきゃないか」
「うん。だいたいは地下水や雨水なんかが溶食するか、でなければ侵食して、気の遠くなるような年月をかけて岩に穴を穿っていくのが普通。珍しいところでは構造洞窟といって、地滑りや地面の断層によって偶然岩盤の内部に空洞が形成される場合もあるわね」
「炭坑なんかは? ってあれは明らかに人工ですけど」
「ええ、もちろんそれも人工でも洞窟の仲間よね。そういう意味では、この〝坑道〟って場所はそちらに近いの。もちろん規模は段違いなのだけれど……」
「へーえ、なるほど。為になりますねえ」
「もっとも、実質何もわかっていないのと大して変わらないけどね」まったく息を切らしていない秦野に対して若干の敗北感を抱きながら、愛媛はややつっけんどんに答えた。「坑道はあんまりにも多くて、なのに古くからあって……いわゆる天然洞窟とは全然違うことは確かなんだけど」
「えっと」視線に観察の趣を強くして、秦野が手狭になりつつある周囲を見回す。相変わらず壁面は滑らかで薄っすらと緑色に輝いていて、岩壁のような無骨さ、荒削りな部分はほとんど見あたらない。そういう目で見れば、坑道が通常の洞窟と異なっているのは明らかだ。「……ってことはこっちは誰かが作った道ってことですよね。まあそりゃそうか。これだけのもの、どれだけ時間かけたって勝手にできるわきゃねーもんなあ」
「そうね。たとえばここまで来た道の中にも、わたしたちのクニの先人が、国防上の都合から掘った杭も少しだけあったよ。でもそれは全体からすれば無に近いくらいほんの少し。それにそういった坑道は未熟で、定期的に補強しないとやがて崩れてしまう不出来なものでね。ここみたいな……発光壁は再現できていないし、かんながけした木材みたいに鮮やかに土を掘ることもできなかったし、岩も削れなかった……発破でもかけなければ、まあ、硬い岩盤を壊すのは無理よね」
「そりゃそのとおりだ」
「だんだん相槌が適当になってきたわね?」苦笑して、それでも愛媛は話を続けた。ようやく興が乗ってきた所なのだ。「珠儀(せかい)の地下を繋ぐこの坑道の成り立ちっていう命題は、〝孤人〟や〝学派〟の存在と同じくらい研究が盛んなの」
「でも、どっちも奇蹟寮の管轄ですよね」水を差すことを恐れるように控え目に、秦野が言った。「孤人も、魔女も」
「研究だけならそんなことはないんじゃない? 式部省の中でもずいぶん細分化されていることだから、わたしも詳しいことはしらないけど。それにしても……魔女、ね」

 そこで愛媛はようやく喋ることを止める。期せずして会話に登場したその言葉は、今まで意識的に避けていた話題だった。
 その理由は、坑道の隠し通路の地図と共に愛媛が図書寮から貸与された一部の書物にある。六年前の領土放棄の際に本国に持ち帰られた重要指定書類である。秦野はその存在を知らないし、愛媛にも守秘する義務こそあれ教える権利は与えられていない。
 表敬訪問や密使の類ではなく、『狂人の戯言』とまで呼ばれているその書を持って指定された場所へ向かうのが、玄蕃寮によって蘇我愛媛に課された任務だった。

「どうかしました。急に黙っちゃって」会話が途切れて靴音だけが沈黙を埋めるようになると、訝しげな調子で秦野が話しかけてくる。つくづく黙っているのが苦手な性格らしい。「やっぱおなか痛いですか?」
「……そこから離れてね、いいかげん。でないともぐよ?」
「えっ、な、なにを?」
「頭がちでおしりがこのモノを」
「すいません。おれの乳首子をもぐのはどうか勘弁してください」
「ちくびこ……?」
「可愛いやつです」
「うん……そうなんだ。お幸せにね」釈然としない気持ちを抑えて、愛媛はかぶりを振る。追及するのは怖かった。「ねえ、ちょっと黙ってくれない? わたし、いまけっこう真剣なこと考えてるんだ」
 それを聞いて、ええっ、と秦野が大げさな声を上げた。
「おれにこんな所で黙れだなんて、そんなむちゃな」
「……喋らないと死ぬとでもいいたいわけ?」さすがに柳眉を逆立てて、愛媛は声を尖らせた。前を行く秦野の尻を蹴らんばかりだ。「孤人指定されるよ、ほんとうにそうなら。死刑だね、死刑」
「そんなんじゃなくて。だって暗いし狭いし、喋ってないと怖いじゃないですか、ここ」
「子供の頃から、つくづく怖がりよねあなた」

 あからさまにため息をついてみせるが、秦野はまるでめげなかった。

「それに、絶え間なく話してれば獣も近寄ってこないんですよ。べつに戦場にいるってわけでも追われているわけでもないんですから、わざわざ陰気にしなくても」
「ここは坑道よ? 獣なんているわけないでしょーが。もうちょっと広くて人通りがあるところなら、賊くらいいてもおかしくないかもしれないけど」

 容積の広さのわりに人通りが少ない坑道などは、場所によっては犯罪者の根城となっているところもある。それだけならばまだしも、都市部から放逐された存在が巣食っている可能性もあるのだ。特に地図に掲載されていない深部などは、装備や人員が不足している人間には多分に荷が勝つ危険域だった。いみじくも先ほど愛媛が口にしたとおり、『まだわかっていないことはたくさんある』。そう、たとえば。愛媛はそっと背の荷に意識を向ける。魔女リュシアンが降りたという、〝ナラカ〟みたいに。

「……いや、いますよ。いるじゃないですか、ほら」
「え、何が?」何言ってんだこの人、という目を向けられて、愛媛は不条理な怒りをおぼえる。
「だから獣ですよ」秦野が松明を地面に向ける。苔のびっしりと生えた床が晧々と照らされた。「足跡があるでしょう、ここに。人間のもあるけど」
「ちょっと待て」

 愛媛は遥か高い場所にある秦野の襟を鷲づかみにすると、強引に歩行を停止させた。有無を言わさず光源をひったくり、その場に這いつくばる。

「地面とにらめっこですか? 敗色濃厚だと思うんですけど」
「…………」

 はたせるかな、秦野の言ったとおり、地面には隠しがたい足跡が、くっきりとは言わないまでも、ついていた。むろん愛媛のものでも秦野のものでもない痕跡だ。それも一人や二人ぶんではなく、少なくとも三種類以上の人間の痕跡が。
 地衣類や苔類は環境によっては稀に数十年や百年、それ以上の単位で古来の痕跡を残すことがある。しかし愛媛が見つけた窪みはそこまで年季が入った代物ではなかった。数時間前とは言わずとも、素人目にも踏みしだかれてからそうは経っていないように見える。
 さらに、相当な重量と思しき明らかに人間とは異なる足跡も散見できた。構造からして蹄を持つ生きものではなく、四足獣の類だろう。
 坑道に四つ足が棲息しているなどといった話を、愛媛は知らない。
 そしてこの回廊は、方国の人間でも一部しか知らない経路なのだ。
 通過したのが同胞である可能性は薄い。となれば、先行者は必然的に警戒対象となる。

「……うおーい」

 愛媛は絶句して、さっと背後を振り返った。予想通り、彼女たち以外の足跡はそこにもある。つまりずっと、気づかないだけだったのだ。視界が悪いこともあるが、あまりに歩きやすい道であるため、足元の注意を怠っていたのは失策だった。
 唇を噛んで立ち上がると、愛媛は飄々とたたずむ秦野を睨みつけた。

「気づいてたね?」
「何のことだか」
「わたしは、あなたがそこまで無能だとは思いたくないよ。付き合いがあった贔屓目なんかじゃなく、わたしの命を預ける相棒としてね。だからこう言うよ。どうして黙ってたの?」
「それは重畳です」秦野に悪びれる色は全くなかった。それがなおさら愛媛の気に障る。「……そう目くじら立てないでくださいよ。仮に足跡の事を言ったとしたって、いたずらにあなたの不安を煽るだけだと判断したんです。そりゃおれだって何度も地図で確認したんですよ。でもこの通路以外じゃ、時間も距離も大幅に無駄を踏むことになる。総距離からいって、この足跡をつけた連中はもう地表に出てますよ、たぶん。それでも安全確認は慎重すぎるほどやりました。ええ。そもそもこの足跡は新しいけど、少なくとも一日二日前のものじゃない。それにいざとなれば逃げる自信もあるし。もちろん外交官も連れて、ですよ?」
「そっか」
 矢継ぎ早に判断の根拠を挙げる秦野に、愛媛は肩の力を抜いて微笑して見せる。
「わたしのためを思ってしてくれたんだよね」
「わかってくれまし、」
「――とでも言うと思ったか木瓜」
 いい終えないうちに、安堵しかけた秦野の股間を蹴り上げた。
 完全に虚を衝かれ、ひゅっと息を吸い込んだ秦野が膝を折って腰を落とす。愛媛は間を置かず低くなった首に手刀を叩き込み、かかとで爪先を踏み抜き、呼吸を求め痛みに喘ぐために開かれた顎にとどめの肘を打ち付けた。それでも倒れない秦野に向けて腰に提げていた伝家の短棍を突きつけて、
「いちいち細かい言い訳をどうも。でねも、伊周、そういうことを考えていたならいたで構わないけれど、先に言うことだけは忘れないで欲しいのよ、わたし。昔からあなたが抜けているって知ってるわたしだからあまり怒らないけど、ね、わかるでしょう? あなた、軍人なんだから。そして、わたしは立場上所属は違ってもあなたの上役なんだから。これは公務なんだし、そのへんちゃんとしないと。わかるよね?」
 愛媛がいっそう笑みを深くして棍の先端を眉間にねじりこむと、負け犬の目で秦野はがくがくと頷いた。
「なら、善し」
 折れず曲がらず腐らず軽くて硬い、構成材質の不明な棍を収めて、愛媛は和やかに秦野の肩を叩く。
「いやー、今ので倒れないなんてたいしたものだよ。りっぱになったね伊周、じゃなくて秦野武官。昔だったら最初の金的の時点で泣き喚くか失神するかだったものね」
 うずくまる秦野を尻目にした愛媛の気分は爽快であった。ここ数日の鬱々とした感覚が一気に払拭されていた。そうそうわたしたちはやっぱりこうじゃないと。大人になったからって急に対応を変えるなんて、それこそ不粋ってものだ。一方で秦野は、やっぱりこうなったいつかこうなると思ってただから嫌だったんだ姫と二人だけなんてくそくそくそなんてこったせっかく任官してあの暴力から離れられると思ってたのになにが姫殿下だちくしょう護衛いらねえだろこの女、と呟きながらひどい顔色で腰を叩いていた。

「おねえさんはあなたが逞しくなってけっこう嬉しいよ。さ、そろそろ先に行こうじゃない。この足跡のことも気になるけど、今はまずここを抜けて、あとはそれからだわ。ちょっと秦野、なんで泣いてるのよ? あんまりめそめそしてるとうざいからこの場で去勢しちゃうぞー」
「短い夢だった……姫がおしとやかになったと思ったのに……」

 嘆く秦野を置いて、蘇我愛媛は央国ドライベスレージ郡二十五管区へと向かって揚々と歩き出した。


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[ 2006/06/22 23:00 ] 弧人の群 | TB(0) | CM(0)
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