インクナブラ

 主に創作小説を掲載します。

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夜明けのエディプス・3 

 さん。
 中編なのでそろそろ終わる。



   ‡‡‡



 とても暑い日だった。太陽が眩しくて雲は大きくて、蝉は鳴きに鳴いて盛りを謳歌していた。陳腐なくらい夏だった。朝に撒いた水なんてあっという間に揮発して空に帰り、僕は熱に浮かされたまま、この行き止まりから脱け出せるようななんの予感もなく、傾斜していく僕の命を見送ろうとしている。

 この日、僕は祖父を殺した。


   ‡‡‡


 そしてこの夜にいる僕は思い出す。あの日、あの夏の中で、僕は確かに祖父を殺した。殺したはずだ。それは確かだ。
 だっていま、この家に祖父はいないんだから。
 でもそれからどうなったのか、僕にはその記憶がない。月も、星明かりさえないまったくの暗闇でしかないこの夜みたいに、手さぐったところで僕はうろしかつかめない。

 だけど何かを確かめなければいけない気がする。だから僕は歩きだす。

 現実感のあせたこの夜に、僕はどうしようもない怖さを感じていた。体に馴染んだ、でも絶対に受け入れることは出来ない空気が、夜全体に希釈されて広がっている。そして僕を取り巻いている。
 夜が嫌いというわけじゃない、僕が怖いのは痛みで、そこから逃れられる夜というのは、僕にとってむしろ逃げ場所であることが多かった。だからその暗闇は僕にとって慣れ親しんだものだ。だけど、いつだって不気味なことに変わりはない。暗いというのは、見えないということだ。見えないということは、そこに何があるかわからないということだ。
 そしてわからないことは往々にして空想の苗床になる。目に見えないこわいこと、こわいものの寝床というのは僕の想像力だ。そしてやっかいなことにこの場合の暗闇というのは、太陽の眩しさなんかよりもずっと効果的にそれの目ざめを刺激してしまう。熱帯夜の暗がりともいえばそれはもう極上の温床だろう。だから逆説、闇はどんな鶏鳴より、鐘楼で打ち鳴らされる鉦の音より、僕の目を冴えさせる。
 ぬめり、ねばつく空気の中、部屋から脱け出した僕は足下も定かじゃない闇の中を、泳ぐように歩く。濁った闇、腐った空気、沈み込んだ夜、そのなかに薄く、だけどあまねく行きわたったどこか憶えのある怖さ、その全部が、僕に足を止めることを許さなかった。
 歩くたびに軋む床を踏んで、落ちてきそうなほどに低い天井を仰ぎながら、僕はその暗くて狭い廊下を歩く。渇いた喉に唾液を流し込みながら、離れの外、渡り廊下のむこうにある屋敷の本館へと向かう。
 歩を進める足の動きが速くなる。それに合わせて、動悸も激しく鳴りだしていた。背中に置いてきた闇が、まるで僕を急かすみたいに重く、肩にのしかかってきていた。その思考を僕はばからしいと思って、だけど振り向くことが出来ない。
 振り返ったら、そこに祖父がいるような気がして。
「あ――」
 まずい、と思ったときにはもう手遅れだった。連想はとうとう具体的な解を得て、僕の空想は後戻りする術をうしなってしまう。同時に、暗い離れの廊下を抜けて、僕は本館へつづく渡り廊下へさしかかる。
 ああ、と思う。中庭。道場へつづくこの場所。この場所も、よくない。ここは僕にとって祖父の残影がつよく焼きつきすぎている場所だ。
 ぐびりと喉を鳴らしながら、足を踏み出す。渡り廊下の建材は新しい。僕の体重程度では軋みもしない。でも、と思う。祖父が歩くたび、この廊下は軋んでいた。見あげるように大きかった祖父。祖父が歩けばこの廊下は重く、嘆くようににぶく、時には叫ぶようにするどく鳴いて、幼い時分、離れの部屋に閉じこもって祖父の来訪に怯えつづけていた僕を威圧しつづけた。
 それは、僕にとっては今でもたしかなリアルだった。時間が癒すたぐいのものだろうとそれはあまりたいした問題じゃない。傷がついたという事実はどこまでも僕を追いかけてくるし、だからいくら今この家に祖父がいなくたって、僕の祖父に対する恐怖感までもがきれいさっぱりとぬぐいされるわけじゃない。
 だから、僕はおっかなびっくり廊下を渡る。夜にただよう空気に怯えた僕の古傷たちは今すぐ部屋に戻れとわめいていたけれど、僕はその声にしたがうわけにはいかなかった。それがどれほど正直な想いを代弁していようと、僕は祖父にだけは背を向けるわけにはいかない。
 あるいは、僕だけは祖父に背を向けてはいけない、のまちがいかもしれない。
 ゾクリと、そんな呪いのような思考に僕のうなじの毛が逆立った。こんなに暑い夜だっていうのに、僕にとっての祖父の記憶はこんなにも冷たい。冷え冷えと僕を縛りつけて離さない。それが忌まわしいことなのか悲しいことなのか、実のところ今にいたるも僕は答えが出せていない。
 そもそも、と僕は思った。祖父はいなくなったと僕は憶えているけど、それじゃあそれはいったい、どんなふうに?
 結局、疑問はそこに立ち返るのだ。だけど、僕はまだそのことを思い出せていない。――と、
 ちらりと、まったくの闇のなか、視界の端で何かが動いたように思った。なんだろう、首をかしげて窓の方へ視線を向ける。外、だろうか? こんな時間に泥棒さえ寄り付かない僕の家をおとなうものなんて、野良猫か……あるいは幽霊くらいしか思いつかない。気味の悪い想像に顔をしかめながら、僕は右手の窓越しに中庭をのぞむ。
 もちろん、べつにそこになにかいいものが落ちているわけじゃない。サッシに縁どられた窓はとざされて、半端な僕の像を映しこんで輝きさえしないガラスはもちろん波立ってもいない。あたりは一面の暗闇だ。シャッターも降りていない以上中庭と渡り廊下の間にあるものは薄い窓一枚なんだけど、ここにも離れで見た闇は重くしずみこんでいた。そしてその闇が内包するのは中庭だ。なんの変哲もない庭。祖父が病気になってからはずっとほうっておかれたままの植木とか、伸び放題になっている雑草とか、コールタールみたいな血だまりの中に沈んでいる誰かの手首とか、なにも特別なものなんてその光景には見出せない。
 あんのじょう勘違いだ。だから僕はため息を落として中庭を見ることをやめて、……

 手首?

 手首だ。僕はいきおい窓に張りついて、たった今目に留めた異物を闇の中に探した。どこか懐疑的に、どうせ見間違いだろうけどという予防を張りめぐらしながら、サッシに手をかける。どこだ? どこで僕は手首を見た? あるいは何を見まちがえた? 苦笑いをにじませて、だけど必死に夜の奥へと目を凝らす。
 手首、手首だなんてそんなもの、こんな月明かりさえない真っ暗な夜の陰影が僕に見せた蜃気楼のようなものに決まってる。僕は無体な妄想を浮かべた自分を嘲りさえしながら、ぐるりと中庭に視線を触れさせる。ほったらかしの樫の木はでくのぼうのよう、そのかたい体を窮屈そうにねじりながら無言で突っ立っているだけだし、伸びっぱなしの雑草は夜露に濡れて雫をたらしながら、深い闇をうっすらと濃緑でいろどっているだけだ。
 それだけ。
「は……、なん、だ」
 それだけだ、僕の目がとらえる中庭は。黒と緑と銀色の雫だけでできている世界だ。そんなところにいくら目を凝らしたって、血だまりに沈む手首なんてどこにも見えない。なんだよ、と僕はばからしさに毒づいた。なんだよ手首って?
 ばかばかしい。息をつきながらガラスの向こうにある夜から眼を逸らす。はげしさを増した鼓動はまるで僕の小心を笑っているようで、僕は少しだけいらだって、あと数歩で終わる渡り廊下の奥へ進もうとして、

 ぬるりと足を滑らせた。

「あ、?」
 粘質の液体に本来直下へかけられるべきだった体重は流されて、僕はがくんと体をかたむける。ず、ず、と右足は滑りつづけて、僕の体が沈みこむ。僕は思考を凍結させたまま足元の闇をのぞきこむ。
 なにかあるはずなんてない、なにもあってはいけない、汗で滑っただけだ、この夏場、道場でならそんなもの、何度となくあることじゃないか。そう思う。思おうとする。たちがわるい幻覚だ、だいたいどうして手首なんだ? 怪談なら生首のほうがよっぽどおそろしいし、都合がいいじゃないか。手首なんか落ちているはずがない、手首なんか、……
 だけど、手首は落ちていた。
「え……え?」
 おもわず、僕の両手を眺めてしまう。僕の大嫌いな僕の両手をながめる。年に似合わない節くれだった指の感触は棒のようで、何度とない骨折や脱臼をへてすっかり硬くなっているそれは、まじまじ見比べたことはないけれど、……たぶん祖父の手に似ていた。
 祖父に仕込まれた僕の両手、意味のない凶器を振るうためにだけ鍛えられたみにくい両手は、それでもちゃんと僕にくっついている。僕と不可分に結合して、切り離されてはいない。安堵すればいいのか、それとも惜しめばいいのかはわからないけれど、とにかく僕の手はしっかりと健在で、……でもそれじゃあこの足下で血にぬめっている生白い手首は、この左手はいったい誰のものだって言うんだ?
 なんてことを論理立てて疑問に思ったわけじゃもちろんない。比較的血に慣れてるとはいえ、それは自分の流すものに限った話だ。ぬるぬるとして僕を包む空気よりもさらにねばついて僕の足にまとわりつく血液、そのなかに浮かぶ誰のものともしれない手首、そんなものを見て冷静でいられるわけがない。思考はまともに働かず、僕は悲鳴を上げるタイミングも逸してひゅうひゅうと息を吸いながら、その場にみっともなくしりもちをついてしまう。
 はげしかった鼓動はすっかりなりをひそめて、心臓はつららで貫かれたみたいに冷えびえと凍り付いて動いてはいない気がする。汗も一気にひいて、そら寒いものが僕の内側を満たしていく。怪談より幽霊より、これは切実な恐怖だった。だってそんなものあたりまえだ、どんなに真に迫るものだとしたって、そういったものは結局のところ虚構に過ぎないんだから。
 そして、流れる黒い血とぼうと闇に浮かぶ手首は、胸が悪くなるくらい現実じみていた。
 だからこれは、僕のよく知る痛みと同質の恐怖だった。
 ピシャリという音を立てて、僕の手が血だまりにけがされる。混乱する機をのがした僕はただ茫然としたままに目の前の非日常を凝視していた。なぜ? どうして? なにがなぜでどうしてなのか、僕はわからないままに問いを浮かべる。
 いや、と僕は思う。
 ほんとうはもうわかってるんじゃないか?
「う、っえ」
 ここにきてようやく、なまぐさい血の臭いが僕の感覚にとどく。それが僕の五感を犯していく。グラグラと目がまわる。眩めいて視界が一定しない。恐怖より何より、そのにおいが僕に決定的な不快感をあたえた。鉄錆の臭い、肉の臭い、吐きたくなるような気色の悪さが僕のなかをかけめぐる。こみあげるどろどろとしたものを口から吐き出したくなる。吐き出してこの場から立ち去って、部屋に戻って眠ってしまいたくなる。じっさいそれが僕の均衡をたもつにはいちばん冴えたやり方だし、面倒だってない。
 でも、それはしない。
 脂汗をながしながら、僕は僕のなかのあらゆる声を黙らせる。唾液を呑みこんで呑みこんで、吐き気をおし戻す。僕の指をよごす血を、まっすぐに凝視する。それがなんなのか、どうしてそこにあるのか、
 そして、その手は誰のものなのか? それをはっきりさせないことにはこの夜を、この意味のわからない夢みたいな……そうだ、カビの生えた心理学者ならいかにも好みそうなこの状況を……終わらせることは出来ない。
 だから僕はいいかげん気付くべきなのだ。
 この事態が何であるのか、ほんとうはいの一番に思いついたことがあるんじゃないか?

 つまり、今だって僕の背中に抜き身の真剣をさげて佇んでいる祖父のことを、僕は目覚めたときから感覚していたんじゃないのか?

「あ、……」
 静かな夜だった。
 そしてそれ以上の静謐さで、僕の背後には祖父が立っている。そう感覚する。錯覚だという反駁は振り向いてたしかめるよりはるか先に、目前に転がる手首が駆逐してしまっていた。なぜいないはずの祖父がここにいるのか? いつのまにこの廊下に、この夜の中に入ってきていたのか? それを説明できるなんの論理もそこにはなく、ただいつの間にかそこにいる。そして、僕にはそれがすべてだった。うなじはじりじりと熱気にあぶられて、ひいた脂汗のかわりに僕の表面には雹みたいにつめたい汗がしたたりだす。
 復讐だ! 復讐にきたんだ! 祖父を裏切った僕らを、その剣で皆殺しにするために帰ってきたんだ! そう叫ぶ誰かが、僕のなかにいた。動けない僕のことなんか知らぬげに、好きかって騒いでのたうちまわって、僕の平衡を乱そうとしている。
 その声を聞きながら、僕の思考は停止している。感覚の全ては背後を気取ることだけに費やされていた。呼吸をすることも忘れて、心臓を脈打たせることも忘れて、僕は祖父を感じることに全霊をかたむける。
 あの日からずっとその手に提げられている二尺三寸の胴田貫が、今度こそ僕の首を斬り落とす瞬間を待っている。
 数瞬か、数秒か、あるいは数分か、僕はずっと止まったまま、床にぺたんと腰を落としたまま、自分が殺されるその瞬間を身じろぎもせずに待っていた。草をなでる風の声も夏をうたう虫の音もない、闇を照らす月もそれをかげる雲もない。無音の夜、無明の夜、夏の夜、昼に焦がされた熱気は空に帰らないままこのすすけた屋敷の中に沈みこんで、空気のまにまをたゆたっている。グルリと僕をとりまいて、逃がさないようここに縛りつけている。
 そして僕は動かない。動けない。もう目の前の血も手首も見えていない。もちろん床の木目を追っているわけでもないし、あまりのことに放心しているわけでもない。ただ記憶はどこか遠くに飛んでいた。いつかの夏、祖父がこの家からいなくなったあの夏に、僕が祖父と殺しあったあの日に、まだ終わっていないその殺し合いの始まりへ、僕の意識は退行していた。
 そうだ、とそこで僕は思い出す。

 あのとき、僕は、失敗したんだ。



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[ 2005/12/17 22:55 ] 夜明けのO | TB(0) | CM(0)
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