インクナブラ

 主に創作小説を掲載します。

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フライバイナイト・ファブリック2 

 うんこ!

 精神のバランスを保つため、あえて幼稚園児なみの時節の挨拶から入らせてもらいました。あいつらってほんと下ネタ大好きな生き物だよ。
 もうかなり眠いので、こまごまとしたことは次回。
 今夜はただ漠然と書いてしまった小説の続きを載せます。
 フライバイナイトファブリック第二回。
 すこしエロい上に主人公がクズなのでお気をつけください。


チャイルドプレイ(L)

 コーナーがある廊下というのにまず引いた。庭には錦鯉でも飼えそうな人工池が見える。その池は今は空っぽだが、しかし鯉の不在性を孕んだ景色などは何ら俺の荒んだ心を慰撫するものではなかった。非常に不謹慎ながらどうして俺はこちらの屋敷に引き取られなかったのかと思わずにはいられない。

 愚にもつかないルサンチマンをもてあそびながら、見通せない廊下の意義について思考を巡らせた。五月にしては冷たい外気が、夕闇の中庭を照らす明かりと相食んで窓を結露させている。曇りガラスに移る自分の顔を見て髪を整えながら、思うのだった。曲がり角の向こうから人が来る廊下では、落ち着いて物思いにも耽れない……。

「おっと」
 と、黒い靴下を滑らせながら、角から姿を現した男が足を止めた。風貌は若く、背は俺よりも低い。顔色は内臓性ではなく栄養性に悪い。もっとも、通夜という場と空気がそう見せているのかも知れない。手にはハンカチーフを持っており、手水にでも行った帰りと見えた。
 俺は無言で会釈すると、廊下の端に体を寄せ、通り過ぎようとする。
「お兄さん、この家の人? 親戚?」
「親戚です」
 思わず答えたものの、声をかけられるというのはなにか、ルール違反を犯されているような気もした。この手の儀式の斎場というのは、粛然としているべきではないのかという、それは現実を見ない美意識に近い。実際は、とりわけこの日ノ出家のようなケースでは、噂話を聞きとがめることこそ馬鹿らしい。

 男は俺の風体を、比喩ではなく頭のてっぺんから爪先まで吟味して、したり顔で頷くと「大変だねえ」とあまり大変ではなさそうな調子でこぼした。人を値踏みすることに慣れていて、またそれをする自分の眼にも自負がある。そんな印象を受けた。

「こんなことになっちゃって」と男は続けた。ご愁傷様という文句まで合わせて、ワンピースの定型句だ。
「あなたは?」と俺も半ば様式美にのっとって、質問を返した。先ほど奇態を演じたぶん、ここではまともな接待をする必要がある。意味はないけれど、それがバランスというものだ。
「ああ失礼。僕は、こういうものです」
 よどみない動作で胸ポケットから差し出されたのは、名刺だった。洗練された居合のように出がかりが見えないところに熟練を感じさせる。受け取った紙切れにはこう書かれていた。

 統合防衛保障 人材開発部 宣伝担当 赤川悟(独身)

「統合防衛保障」
 棒読みで繰り返した。仰々しい名前には聞き覚えがある。セキュリティ会社だか保険屋だかであったはずで、その点にはあまり興味がない。かえすがえすも、葬儀というのは社交の場だ。和式便器の部品を専門に取り扱う業者が通夜に出入りしたからといって、不思議なことは何もない。
 ご丁寧にどうも、と会釈を返しながら、俺も財布からアルバイト用の名刺を取り出した。男、赤川悟はカラフルかつ安っぽいそれを目にすると、いかにも意表を衝かれた顔をした。
「バー・アンサンブルとケンちゃん」
 字面を読み上げながら、どんどん語尾が上がっていくのがわかる。赤川氏の心情は俺にもじゅうぶん理解できた。バーに明らかな蛇足であるケンちゃんとか付け足すセンスはマスターのもので、野間謙太郎というのが彼の名前である。バーを名乗るくせに思い切り居酒屋みたいなネーミングだが、これでも心有る人の忠告を経ていくぶん弱体化したネーミングなのだった。
「ホール担当の藤原有明といいます。ご来店の際にはぜひご指名を」
 源氏名に使っているクラスメートの名前を騙りながら、俺は記号としての名辞をはかなんだ。
 赤川氏はいくらか自身の眼に猜疑心を催したように、胡乱な目つきで俺を見た。
「バーなのに指名するんだ?」
「テーブルごとにウェイターが接客するシステムなんですよ。指名数に応じて時給が上がっていくんです。そうですね、穏和なホストクラブのようなものを想像してもらえればわかりやすいです」
「それは、いささか残酷なシステムだな」
 赤川氏が名刺をためつすがめつしながら言った。
「ええ。弱肉強食という言葉を実感させられます。社会経験ですね」
 もちろん、指名制うんぬんは嘘である。いくらなんでもそんなバーでは働きたくない。
「ふうん。面白いね。ありがとう。機会があったら立ち寄らせてもらうよ」
 微笑むと、赤川氏は名刺をホルダーへしまいこんだ。立ち去りざま、ふと俺を顧みる。
「ああそうだ。君、にわとりは好き?」
「好きでも嫌いでもありません。強いて言うなら、まあ、少し落ち着いたら? という感じです」
「じゃあ、惨殺されればいいとかは思わないかな」
「はあ、まあ」
 惨殺?
「じゃ、ツーテイルはどう?」
「やはり特に善し悪しといった感情はありませんが、後ろから持ってぐいぐい引っ張りたくなります」
 赤川氏、相好を崩して、
「そうかい。ならそうしてやるといい」
「いや誰をですか」
 わけがわからない。

 日ノ出家の敷地内には住居に耐える家屋がふたつあり、事件が起きたのは母屋と呼ばれる当世風のはいからな建物の方で、今は出入りが禁じられている。
 台所でつかまえた話好きの中年女性の話によれば我が家を含む客が招かれている立派な屋敷はふだんは使われていなかったそうだ。それでも今回のような事態では開放せざるをえないということで、今は見も知らぬ人々の宴会場として使われている。
 ふすまに仕切られた二部屋をぶち抜く畳数えるのが馬鹿らしいくらい広い座敷で、通夜に恒例の酒盛りが行われていた。もっとも猟奇的といえなくもない事件の現場近くなので、実態は宴会といった調子でも盛り上がっているという雰囲気ではまったくない。卓についている人の数も、老人が大往生した場合に比してだいぶん少ないに違いなかった。それでも話すことは話さなければならない場であるので、喪主の日ノ出塔子は先刻から忙しく立ち回っている。
 俺は偏食のうつせから気に入ったおかずをせしめ取りながら、御煮しめのしいたけとこんにゃくだけを集中的に食べていた。気を抜くとコップに注がれる日本酒が異様に旨いうえに口当たりがよく、たいして呑めもしないのに俺はよく器をほした。名前も知らないおばさんたちは俺がノキの双子の弟だというと勝手に気を利かせてちやほやしてくれるので気分もよかった。できれば辛気臭いのや平均年齢もなんとかしてほしいが、そこまでは望外というものだ。父と母はじゃっかん遠い位置にいて、顔見知りと当り障りのない話に興じているようだった。
 そうなると、酒も飲めず料理も気に入らないうつせが割を食う。
「つまんない」
 頬を膨らませたりはさすがにしなくとも、そうしても不思議でない様子の妹は場に飽き飽きしているようだった。気付けとばかりにビールを注いでみても渋面を見せる。気の進まない様子でコップに口をつけると渋い顔はますます苦くなった。口直しにオレンジジュースだか砂糖入り色水だかわからないものを飲み下しながら、ふいとその眼が俺の背後に泳いだ。
「誰?」

 このあたりから記憶は妖しくなる。うつせが見止め俺を指差しするのは若い女だった。化粧気は薄いというより皆無で、面立ちは幼く、喪服には着られているという印象を受けた。伸びた癖毛は品のいい飼い猫みたいで、ついでに言うならば肌色が純粋な日本人にしては白すぎた。背も高い。
「あ、あんた」とその『誰?』は言った。「なんでいるの、こんなところに」
「いやなんでといわれても」俺は酒をちびりとやった。
「だってあんたタキでしょう」
「え? うんそう」
 いらえつつわかりやすく眦を裂いて驚く女を見つめながら、この女誰だろうつーか可愛いなやれないかなと俺は思った。

 ∇

 結局その場では思い出せなかったのだけれど、この女は実は俺の古馴染みなのであった。一応脱北という形式で内地にやってきた彼女の今の名は古暮カレノという。馴染みといっても要するに幼い時分に面識があったというだけのことだ。そして俺は幼年時代を姉のノキともども北海道の養護施設で過ごしたのだから、カレノのような知り合いは多くはないにせよ他にもいる。ただ成長期を経て双子の姉の顔さえもうろくろく識別できなくなった俺にそんな十把ひとからげの旧知をいちいち記憶していろと言うほうがどだい無理な話であって、ここで俺がすぐに彼女のことを思い出せないことは批難には当たらないはずだった。
 それは子供ながらに仲良く里抜けしてきた仲間なのでノキの葬儀にそうした古い知り合いがくることは不思議ではないにしても、名前さえ変えて散った面々の顔を一致させるのは至難の業だった。ここではむしろ一見して俺を識別したカレノのほうが異常なのだ。
 さてアルコールによる一時的な思考活動の遅滞つまり酩酊が、このあとの俺にとってなんらのエクスキューズにもならないことは百も承知だ。
 それでも言い訳を許してもらえるのならば、これは酔った勢いだった。

 知り合い知り合い、としつこく聞いてくるうつせを適当に避けながら俺はこの時点ではまだ古暮カレノとも幼馴染みとも知らない女をじっと見つめていた。女のほうも俺を燃やそうとでも思ってるのかと懸念するほど凝視していた。それくらいにすごい眼力だった。だいたい男というのは綺麗な子に真正面から見つめられたりすると勘違いを起こす。それは宿痾ともいうべきもので、もちろんたいして女性に免疫があるわけでもない俺もその例外ではない。だからもうヘモグロビンが運ぶのが酸素かアルコールかも怪しい状態だった俺は素直にああこの女は俺にちょっと気があるんだなと了解した。かんがみてぶっ飛んでるとしか思えない回路を経由した解釈ではあるが、結果的に事実に当たらずとも遠からずであったのが一番の問題であった。
「座ったら」
 と促しながら、滑走しつづける脳髄が凄まじい勢いで皮算用を始めている。とりあえずこの女が俺のことを知っているのは間違いなさそうで、でも俺はこの女に見覚えがない。どこかで会ったのだろうか。まさか学校ということはないだろう。学校の知り合いが車でハイウェイ走って何時間もかかる田舎の葬儀に顔を出す可能性というのはいかにも些少だ。無視して差し支えない。とすると、どういうことになるんだろう。答えはしごく簡単で喉元まででかかってるのにどうしてもあの頃ホームでよしみを通じた相手だという正解にたどりつけない。
 とりあえずめったに見ないくらいの可愛い子が酒の席でこんなに近くにいるのだし酒を勧めて携帯のアドレスと番号を聞くくらいはすべきだろうと俺は思う。そしてひらめく。そうだよ番号聞くときに「名前の漢字どう書くんだっけ」とか聞けばいいんじゃないか。しかしまずさりげなくそんなプライヴェートな情報を聞くという雰囲気に達するまでのハードルが高かった。だいたいここ通夜の会場だぞ。合コンよろしくアドレス交換しようよとかどれだけ空気読めてないんだよ。それにしても崩した足に穿いたタイツの網目模様が、大脳辺縁系に訴えかける。えろい……。
 とまれかくまれどうしよう。
 決め手は結局性欲だ。男が勢いで何かするときに関わるのはだいたい性欲だ。
 その場合高い確率でろくでもない冒険心の発露を導くが、なにしろ人が生きていく上で無視できない原動力なのでその強制力にはよく逆らい得ない。やんぬるかな! 俺は心を決めた。
「とりあえず、かけつけ一杯どうぞ」
 一升瓶を手に口を紙コップへ向ける。焦ることはないはずだった。まだ夜は長い。まずジャブから行こう。男も女も酒に酔うと気分が淫らになるとヤング向けの情報誌で読んだことがある。
「あ、うん、どもども」
 女のほうも勢いよく俺を指差した割にはその後の切り口に困っている様子だったのだが、俺は彼女が置かれている状況の面倒さや悪質さについてはもちろん関知していない。古暮カレノがこの日ノ出家の葬儀に出席するのが六度目なのだということも、その六度目にして初めて俺を見つけたということも、もちろん知るよしもないのだった。
 頭の中で俺は茫洋とおおむね自分のことだけ考えていて、どうだろううまく行ったらこの子と仲良くなれるかもしれないけど今やっぱり弔事の最中だし普通に考えたらそんなことありえねーよと心理的予防線を張りつつ、喉も乾いてなくて味だってよくわからないのに「うまいなあ」と呟きながらとことんコップの中の液体をどんどん喉に送り込む。
 ほんとこの人誰だっけとがんがん頭を悩ませながら「それにしてもあれからどうしてた?」と相手に何か聞かれる前にどうとでも解釈できる質問を投げかける。ここですらすらと女がわれとわが身の素性から俺との関係までばっちり説明してくれればいくら拙い俺の記憶野も根性入れてシナプス繋げるだろうと期待していたのだが、もちろんそう都合良くことは運ばないのだった。
 女は心底万感交々という顔つきで「いろいろしてたよ。本当にいろいろ」と答えた。ミルクも砂糖も混ぜない純粋な苦味が醸成した微笑が浮かんでいた。大人っぽい表情だった。大人っぽいといえば、女はどうやら俺より年下に見えたのに普通に飲酒を嗜んでいた。傍目にはわからなかったけれど、彼女も俺と遭遇して少なからず顛倒していたのだ。
「そういうあんたは今なにしてるの」さんざ迷ったという様子で女がそう切り出した。
「俺? 俺は高校生」
「コウ・コウ・セイ」それが得体の知れない職業ででもあるかのような発音だった。ややあって字面通りの意味であることを理解して、女はふっと笑った。俺がいくぶん気分を害したのに気付いて、言いつくろう。「あ、ごめんごめん。気にしないでただ意外だっただけだから」
「年齢を度外視すれば普通だと思うけど」
 彼女はいかにも世慣れした韜晦の笑みを浮かべ、
「そうだね、それは本当にすごくまっとうな進路だと思う。つまり、あんたは今のところ順風満帆な生活を送っているってわけだ。けっこうなことじゃない」
「ああ、まあ」返答がぶっきらぼうになるのはしようがないことだった。「そのようすだと、きみはそうじゃないみたいだね。いうところの〝いろいろ〟は、今もなお続行中ってことだ」
「きみ? きみって? ヘンな二人称だね。似合わないな。質問の方はそう、そうだね。イエスです。本当に厄介事は尽きないものだから。あんたとは違ってね」
 俺はそれを当て擦りのような物言いだと感じたし、女もまたそう聞かせる意図はなかったとしても、じっさい皮肉な調子になっていたことにもちろん気付いただろう。かといって謝るでもなく、女はただ気遣わしげに目を伏せては、ごまかすようにコップを口へ運ぶピッチを速めるだけだ。
 彼女にあまり精神的な余裕がないことを俺はさすがに気取った。けれど彼女がおそらくはノキの友人だったのだろうことを思えば、何かしら焦燥を覚えるような心理状態であっても不思議ではない。予期せぬ隣人の死は悲しみよりむしろ不安とか焦りといったものを主に運ぶからだ。ひとり合点した俺は、例によってひたすらホスト役に徹することにした。サーヴィスの精神とは滅私に尽きる。じぶんはただ差し向かった相手を喜ばすためだけの装置みたいなものだと開き直るのだ。さすれば道は開かれるであろう。
 開いた先が袋小路に通じるような道だった場合までのケアは、この訓示にはとうぜん含まれない。
 いささか白けた間合いをごまかすように、俺はひたすら女に酒を勧めた。危険なペースではあったが、女も強いて拒みはしなかった。むろん俺も彼女のコップを干す運動には付き合う羽目になったのだから、明らかに共倒れというゴールを目指しての同道となったわけである。
 女が据わった目で俺を流し見た。
「そういえば、あんた、飲めるの?」
「いや、あんまり得意じゃない」この時点で少なくとも限界酒量は越えているはずだ。
「ふうん。まあいいわ。付き合ってよ。こんなときでもなければ、いや違うね、こんなときなんだから、一度は正体をなくすくらいお酒と仲良くするのもいいって思うのよ」
「まあ、付き合うよ」
 会話は以後めっきり途絶えたが、不思議とそれ以上同席に困るような空気は流れなかった。けっきょくそれは俺たちのあいだに通底する思い出というものの仕業だったのか、それとも単に彼女との相性が合っていただけだったのかはわからない。ただこのとき、いくらなんでも俺は気づくべきだったのだ。二人をつなぐよすがは日ノ出ノキという共通の知人の死であるはずだったのに、とうとうその話題について触れることが、一度もなかったということに。
 あいまいな時間が過ぎていく途中で、父や母やうつせに何か声をかけられたようにも思うけど、俺はもうとにかく目の前で塞ぎがちなこの女をどうにかしてやらねばならないという使命感に衝き動かされていた。俺たちは、いつの間にか広い会場の人口密度がますます減って、宴もたけなわというよりはお開きの気配が漂うようになってもなお、言葉を交わすかわりにひたすら種別を問わずアルコールを消費しつづけた。分解酵素はとっくに音を上げていて、ほとんど意地のようになっていた。俺たちは同時に限界に達した。女は意識を失い、俺はろれつがかなり怪しくなり、めいめいそれぞれのかたちでここしばらくは酒どころかコップすら見るのも嫌になるほどしたたかに酔った。テーブルに突っ伏し、軽く胃のなかみを戻してしまっている女を夢見心地で介抱しながら、俺は彼女をどこかに寝させるべきだと考えた。夜風にでもあたろうと、支えてるのだかもたれあってるのだかわからない状態で、彼女を広間から連れ出した。そのさい、日ノ出塔子が何かを言ってきたような気もした。俺はそれなりに的を射た受け答えで日ノ出塔子に接したが、その内実はきわめて不確かだ。だが気づくとどこかの客間に通されていたから、たぶん女を寝かせてそろそろ帰るようにとでも指示されたのだと思う。
 室内には照明が灯っていなかった。冥みょうとした暗闇に向かってためつすがめつしながら、沈丁花の芳香剤が匂うのを感じた。上質のじゅうたんを踏んで中ほどまで入ると、思ったよりも手狭な部屋だとわかった。当然、旅館ではないのだから、やや傷んだ寝台が用意されていたのは、以前にその客間が使われていたということを意味している。しかし酔っ払いにそのあたりの機微を察しろというのも無理な話で、俺は意識朦朧たる状態の女を布団に寝かせると、あのアルコール独特の熱病にかかったような目で、眼前の寝姿を見下ろした。見えるのは女の顔を覆う腕の細さや、露出した首の白さ。ここに至るまでの道しなに触れた女の体重が異常に生々しい実感となって俺の腰を絶えず刺激した。喪服の黒は夜の色に溶け込まず、むしろ背中に敷いた掛け布団の青白さによって際立ってさえいた。
 おぼえず俺は欲情した。
 などといえば不意の事故であることを演出できるかもしれないが、もちろんそうではなかった。酒を飲んでいる途中から、俺はどうにかしてこのような状況に持っていけまいかと断続的に夢想してはいたのだ。それが実現するとはまったく思っていなかったが、しかしいま、俺の胸三寸で、よこしまな願望は簡単に実現してしまえる距離にあった。
 ほとんど迷わなかったし、その必要も認めなかった。俺は膝を布団の上に乗せた。さらに一人分の体重を預けられたスプリングが軋み、俺は顔を隠す女の腕に手をかけた。ゆっくりとどかしながら、女の上へと体をかぶせていく。体臭が近く、酒臭は互いに吐くものが混ぜあい、識別なんてどだい無理な話となっていた。
 女がもう気づいていることに、俺は気づいていた。少しの抵抗であれば無視するつもりだった。しかし、女はむしろ体を弛緩させていた。酔っているとはいえ、異常なほど落ち着いた対応だと感じられた。ただ彼女の瞳だけが、猫のように暗がりの中の光をせいいっぱい集めて、力強く俺を刺している。が、そうと思えたのは一瞬で、すぐにまぶたが閉じられると、女はいかにもねぼけた風に「なあに~」と間延びした声を上げた。俺は彼女の体にかるく触れながら、ますます距離を密なものにした。やれる。もうこのあたりでそう確信していた。ほかの事柄は、頭の中からすっかり吹き飛んでいた。
 俺はできるかぎり優しく聞こえるように囁いた。
「いいだろう」
「…………ヤだ……」
「やだじゃないよ。もう遅いよ」
「……そんなつもりないぃ……のにぃ」
 女はいやいやと首を振ったが、それを見ないことにして、俺は彼女のまとう衣服の下へ指を滑らせた。ここではじめて、明らかな拒絶の意思が示された。ひんやりと冷たい太ももがかたく合わせられて、強張っている。俺は熱っぽく語りかけた。
「好きなんだ」
 当たり前だが、方便だった。
 女は不意にびっくりしたように目をまるくして、下から俺の顔を見上げた。酒盃をかわすあいだもずっと引き締められていた眉が、きょとんと緩められていた。彼女は口元だけで笑いながら、声を震わせて言った。
「うそつき……うそでしょ?」
「いやほんとほんと。俺はそういう嘘はつかない」
「うそつき」
「嘘じゃないってマジだって」できるかぎりの誠実さを込めて、俺は瞳を合わせた。
「……うそだー」
 もう一押しだった。
「好きじゃなきゃこんなことしないから」
 押しのけられるのを覚悟で唇を合わせようとした。女はすんでで顔をそらし、おかげで接吻は首にする羽目になった。女の手が俺のうなじを強烈に捉えたのはそのときだった。体温を分け合うほどにくっついて、俺は鼓動に耳を済ませた。女が、なにか秘密を打ち明けでもするように、ひそやかな声で呟いた。
「本当? 信じるよわたし。本気にするよ……」
「いいよ。俺も本気だし」
「じゃあ、もういっかい言ってよ。好きって……」
「好き」
 内心面倒そうな女だと思いながらも、俺は即座に請け負った。あまり認めたくないことだが、どうせこの葬式が終わればもう二度と会うまいと頭の一隅で計算していたことも、また事実だった。
 俺の髪をすく細い指に力と熱がこもり、やがてほどかれた。女は途方もなく長く深く熱い息を吐いて、体を安んじさせた。
「あんたって、ほんとバカ。なんで、今なんだろう」
 受け入れるというよりは、諦めるような気色だ。俺にはどうでもよい差異だった。そして今度こそ、唇は正しい接着点に収まった。鼻息が鼻梁と頬をくすぐり、唾液の湿る音がなまめかしかった。やがて顔を離し、それから先はもう余計なことはあまり口にしなかった。
「タキ」
 その名を呼ぶイントネーションも含め、つねに既視感のつきまとう、奇妙な行為だった。見たことのないはずの裸身も、どこかで見たような気がひどくした。一抹の気がかりを抱えながらも、しかし結局はただ性欲の翻弄に身を任せきって、俺は女の体に没頭した。ワンセンテンス以上の言葉を繰れなくなったみたいに、俺たちは単語で意思や希望を伝え合った。言語野がかろうじてまともな機能を取り戻したのは、終わりもじきに近づこうかという頃だった。
 俺はいった。
「ごめん。俺、首を絞められないとだめなんだ」
 古暮カレノは息を荒げながら笑った。
「知ってる」


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[ 2007/04/13 02:47 ] 小説 | TB(0) | CM(0)
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