インクナブラ

 主に創作小説を掲載します。

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夜明けのエディプス・4 

 死。



   ‡‡‡


 意外と言うべきか、骨折した指を見ても妹はあまり取り乱さなかった。ただ唇をかみ締めて僕を見おろして、氷嚢と包帯をおしつけてきたあと、「買物に行ってくる」と言って出て行っただけだ。
 阿坂さんを部屋に残して。
 まいったな、と僕はごちて、泰然としてアイスティをすすっている妹の友人だという少女を盗み見る。割り箸を添え木代わりに包帯を巻いた指に、氷嚢をあてながら。
 エアコンの作動音が重く機械的に響いて、僕たちの間に、四分三十三秒みたいな音楽を、ことさらむなしくかなでていた。

「気にしなくてもいいですよ」

 と、不意をつくように阿坂さんが言った。「というか、しないでください。先輩のお家なんですから、お邪魔してるのはわたしで」

 それはそうだ、と思いながら、僕は苦笑した。だけど、それで人見知りがなんとかなるのなら苦労はしない。心遣いだけ受け取っておくことにして、僕は傷の痛みをごまかすために気になっていたことを訊ねてみることにした。

「阿坂さんさ、僕のこと知ってるって言ってたけど」

 その言葉に「ああ」と頷いて、阿坂さんは僕を見つめ返す。

「それですか。うん、まあ、実を言えばたいしたことじゃないんですよ。志束の言ったとおり、わたし中学のときはこの近くの学校にかよってたんです。転校が多かったもので」
「じゃあ、そこで僕を見かけたってこと?」

 それならあっさりと種は割れたことになるんだけど、それだとそれほど目立つわけでもない僕を一方的に知っている理由としては弱いように思う。

「そう思ってらっしゃるのは先輩だけでしょうね」かげりの混じった笑みを浮かべて、阿坂さんは首を振った。「失礼かもしれませんけど……先輩は、有名でした。その、お怪我とかで」
「――そっか。言われてみれば、そうかも」毒をはらんだように疼く指の傷をおさえながら、僕は苦笑いを深めた。「包帯だらけで通ってた時期もあるもんね、そういえば」

 はい、と頷いて、阿坂さんはふたたび、紅茶のコップに口をつける。結露した水滴がその表面をすべって、阿坂さんの細くて小さな指を伝った。「おじいさまのこととか、ある程度は志束から聞きました。それでわたし、ようやく先輩のお怪我の理由が判ったんですよ。不謹慎ですけれど」

「気にしないでくれるとうれしいな」感心を隠さず語調に込めて、僕は阿坂さんを見直した。彼女のそれはまるきり、大人の態度のように思えたのだ。「それに、なんていうか、ごめんね。聞いて気分のいい話じゃなかったでしょう」
「いえ。わたしより志束のほうを気にしてあげてください。あの子、先輩のこと大切に思ってますよ、すごく。だから今だって志束のほうがつらいんだと思います」

 ストローにもてあそばれ、カランと澄んだ音を立てて、コップの中の氷がこすれる。

「…志束はね、聞いてるでしょ? あの子は、うちからはできるかぎり遠ざけられてたんだ。…その、お祖父さんの被害にあわないようにって。そのぶん僕にしわ寄せは来てたから、きっとそのことを気にしてるんだ。あいつは……、なんていうか、まっすぐだから」

 若干の皮肉が入り込むのは止めようがない。僕は話しすぎたことを早くも後悔しながら、楚々と座ったままの阿坂さんの様子をうかがった。それから、妹のことを思う。僕よりもずっと背の高い、僕よりもずっとまっすぐな、僕とは違う、――

「……だからさ」その思考を断ち切って、僕は言葉を接ぐ。このままだとおかしなことを口走りそうだった。「僕も志束には、あんまりこの家に関わってほしくないんだ。言い切れるよ。不幸になるんだ、みんな。この家とかかわると」

 僕のように、と思いながら、僕は強く折れた、いびつな指を握り締めた。演舞に見せかけて腕を切り落とされた父のように。父がいながらも、ずるずると祖父と関係して僕のような子供を産んでしまった母のように。
 あるいは、祖父のように。

「でも、それは志束が決めることでしょう?」あくまで柔らかく、阿坂さんは受け答えた。それでも口にした言葉を後悔するように小さく頭を下げて、「ごめんなさい。余計なことでした。……遅いですね、志束。どこに、――っ」

 はっと口をつぐんだ阿坂さんから眼をそらして、僕も気まずい雰囲気をはらうように咳払いをする。「そうだね」と頷いた。はやく帰ってきて、と妹の姿を思い浮かべながら、

「遅いよね、志束。ほんとにあの子、どこに行ったんだか、――」

 そこまで口にして、僕はある問いに、その先の解につきあたる。僕は一瞬だけ、すべての行動と思考を静止させた。

 妹は、どこに?


 その疑問が綾なしてあるひとつの解を形づくった瞬間、僕は発条じかけの人形みたいな唐突さで部屋を飛び出していた。クッションを跳ね上げノブを引き千切るようにひねり、階段を三段飛ばしで駆け下りる。

「先輩!?」

 阿坂さんの声が、とおくで響いたように思った。だけど僕はその声を聞いていない。折れた指がズキズキと痛んでいたし、何しろ思考はたった一点の思いつきに埋め尽くされていたのだ。
 氷嚢のなかの氷はまだそのかたちを保っていたけれど、僕の熱さを冷ますにはまったくの力不足だった。意識は白熱してろくにものを考えることができなくなって、僕は指の痛覚にだけ思考をさしむける。

 この指を見たとき、妹はどんな顔をしていた?

 歯をかみしめて、そう長くもない階段を折りきった。バカなことをするなよ、と悪夢をみるように呟く。妹。中学からは全寮制の学校に放り込まれて、そうすることでずっとこの家の呪いからは遠ざけられてきた妹。

 だからって、この家における祖父の支配性を知らないはずがない。小さいころから、妹は血まみれになった僕を何度となく見てきたはずなのだ。泣き叫ぶ僕の声を、ずっと聞いてきたはずなのだ。あんな僕を見ていながら反抗するほど愚かな妹じゃないと、僕は祈るように思う。

 だけど、と僕はなかば確信していた。妹はそれをするだろう。まちがいなく、それをするだろう。僕を救うために。妹は妹の正義をふりかざして、やっぱり、僕を傷つけるのだ。他のすべてと同じように。

 祖父。祖父はどこにいる。僕は刹那だけ足を止めて、あんまり焦りすぎてろくに働かない役に立たない脳髄をむりやりに回す。どこ? どこだって? なんだこの間抜けは! と僕は叫びだしたくなる。祖父の部屋、祖父の部屋だ! この無様! 僕は唇を噛み千切って走り出す。

 妹の部屋から外はまるで蒸し風呂のなかのように熱い。蝉の声は熱された油のようにじいじいと耳を焼いてうるさい。ぬめる空気のなか、広い屋敷の狭い廊下を疾駆する。妹の安否とか、そんなことを具体的に考えているわけじゃなかった。それどころか、真逆のことを考えていたのかもしれない。
 つまり、余計なことをしているのかも知れない妹を、邪魔だと。
 本音を言ってしまえば、僕は妹よりも僕が好きだ。世の中には姉妹や……家族のためになら命だってかけられるっていう人はいるんだろうけど、と僕は思う。そんなこと、僕にはぜったいにできない。不可能だ。
 ならどうして今、僕はこんなにも焦ってるんだろうか。その答えは判じがたい一方で解りきってもいた。妹は妹だ、大切かもしれないけど、決してそれだけじゃない。思うのは、コップの水だった。表面張力というものがある。それを越えて器いっぱいに貯められた水があふれだしたら、その水はどこに放てばいいのか?

 それと、同じだった。ジリジリと世界を焼く太陽が眩しかったせいで人を殺した男がいるように、僕もこの日の暑さにやられてしまったのかもしれない。うるさすぎるセミの声にまともな判断力を失ってしまったのかもしれない。だがともかく、水は貯めつづけられたのだ。来る日も来る日も、僕の器にしたたりつづけていたのだ。血の色をした雫は僕が祖父の木刀に骨を折られるたびに、肉を打たれるたびに、心をくじかれるたびに器に注がれていって、その日、とうとう臨界をむかえた、そういうことなのかもしれない。

 僕は怒っていた。たぶん生まれてはじめて、他人に殺意をいだいた。
 足りなかったピースが、かちりと音を立ててはまった気がした。
 妹のことなんてただの最後の一滴にすぎない。そこに理由を、僕は求めない。それは色々なことのひとつだった。まったく、なにひとつ思いどおりになってはくれない世界に対する身勝手な憤りがあるだけだった。いくらとりつくろったって、僕は本来的にそういう人間だ。忌子、蛭子だ。祖父と同じ畸形の存在だ。だから僕は、僕をいとう父も汚く見える母も安穏と生きているだけの妹もしらない。そもそも、そんな連中は僕の世界に、はたしてほんとうに、いたんだろうか?

 だって、あいつらは一度も僕を助けてはくれなかったのだ。だから僕はひとりで戦ってきた。ためこんでためこんで、いつか祖父を弑す日を待ち望んでいた。息を殺して機をうかがい、必死の一刀をその頭蓋に叩き込む日を待っていた。刹那に千秋を見つけさえしながら、僕はずっとひとりで戦ってきた。

 痛みも恨みも苦しみも悲しみも、だからほんとうは、僕にはありはしなかった。それはいつか僕が祖父を殺すための、正当な代価でしかないからだ。僕を見ているのは祖父だけだ、僕が見たのも祖父だけだ、僕はそれ以外に家族を知らなかったし、むこうだって僕をきっと家族だなんて思っていなかった。

 だから――だから、許せなかった。今まで外野で眺めていただけの連中が、僕と祖父の世界に入り込んで余計なことをしているかもしれないという今が、たとえようもなく不快だった。いちばん大事な、しかも僕にとって唯一のものを土足で踏みにじられたようにさえ感じた。

 ああ。

 僕は祖父が嫌いだ。大嫌いだ。僕の世界を痛みに耐えるだけのものにした祖父を、許容することはできない。
 大嫌いな祖父は、僕が物心ついたときにはもう、僕の全てを支配していた。その暴力で、痛みで、僕の全部を掌握していた。だから、僕が日々に見つける安らぎも楽しみも、ただその苦痛に耐えるためだけの糧に変成させられたのだ。楽しいことがなかったなんて言うわけじゃない、学校は楽しかったし、友だちといる時間、僕はたしかに笑っている。だけどその全ては、祖父の暴力に対抗するためだけの糧にすぎなかった。
 生まれついて、僕の世界から祖父は切り離せない。そういうふうに育てられたし、そういうふうに生きてきた。ひどく歪んで、とても正気だなんて胸を張る事はできないけれど、それでも僕はそうして生きてきた。

 だからその日々の終わりであり始まりの儀式として、いつか、そう遠くないいつか、僕は祖父(ちち)を殺さなければいけない。
 
 子供(ぼく)は、父親(そふ)を弑さ(こえ)なければいけない。

 それを、こんなかたちで迎えなければいけないことだけが不満だった。だから僕は怒っていたのだ。狂おしく血走って、猛っていたのだ。
 だけど、それは僕が今走っている理由になるのか?
 答えは思い浮かばない。それ以上は何も考えないままに、僕はいつか母と祖父との行為をのぞき見た祖父の部屋の前にやってくる。そして襖を乱暴に押し開けて室内に妹の姿をさがす。だけど部屋の中には誰もいない。祖父の部屋はいつだってからっぽだ。嗜好品が置いてあるわけでもないし、もちろん美術品だってない。畳にはちりひとつ落ちていない。僕の眼にうつる動くものなんて障子紙を突き抜けて部屋にそそがれている光に照らされたほこりがきらきらと踊ってるだけだ。

 この部屋には何もないけれど、ただひとつ、祖父の差料である白木づくりの胴田貫が無造作に放置されている。いつだってそこにその凶器が在ることを、僕は知っている。

 その使い込まれた凶器が、夏の音のなかで僕を呼んだ気がした。

 深く考えもせず、僕はその刀をつかみとって走り出す。そこまでの一連の行動に、僕はなんの疑問も浮かべはしなかった。もしかしたら、僕は一時的に発狂していたのかも知れない。それくらい、その瞬間の僕はせっぱ詰まっていた。まるで突然世界が終わりを迎えることを知らされたみたいに、僕は焦っていた。

 だから走る。

 じわりと、額から前髪をつたって汗が目に染みた。暑い。そしてその暑さのもとである夏の陽射しがそうであるように、体の熱もおとろえを知らない。僕は疾走する。通常の刀とちがい剣先に重心の仕込まれている、つまりは正しく人を殺すための凶器をひっさげて、おそらくは今度こそ祖父がいるであろう場所、道場へと走る。

 渡り廊下から中庭を抜ければ道場はすぐそこだ。僕ははだしのまま開け放たれていたサッシをくぐって中庭に飛び出す。草のにおいと夏の陽射しが僕をとりまいて、はるか高みからは目眩がするような蒼穹と両手じゃ抱えきれないくらいの雲が僕を見下ろしていた。

 そして夏の下で僕の衝動は止まらない。数歩で中庭をつっきる。道場へ段々と埋め込まれている軽石のうえを跳ねながら入り口へと向かう。引き戸は開かれたまま、道場のなかは薄暗いということだけを認めて、僕は道場の玄関へと転がるように入りこむ。

 正直、僕はその瞬間まで自分が何に急きたてられているのか、自分でもよくわかっていなかったんだと思う。ただ、邪魔をされ汚された、という一方的で子供じみた思いだけが僕の五体全てを支配していた。

 だから、僕はもしかしたら妹を殺そうとして鞘から白刃を抜きはなったのかもしれない。いや、たぶん確実に、もし妹が祖父に余計なことを言って、祖父が妹に……僕にそうしているような痛みを与えていたとしたら、僕は、妹を殺そうとしただろう。玄関から道場の真ん中あたりにいる二人を見たその刹那だけ、僕は冷静さをとりもどす。たしかめようと思ったのだ。殺すべきか否か。

 そして日陰の静けさにつつまれた、古い、だけどよく手入れされている道場に僕たちはいる。僕が血と汗と反吐と涙と記憶と思慕を塗りこめた世界がそこにある。セミの声さえ届かない別空間みたいなそこで、妹と祖父ははりつめた空気のなか向かい合っていて、

「伊吹?」妹の声は聴こえず、「なにしてるんだよ」僕の声も聴こえず、「なにって…」誰の声も聴こえず、僕はただそれを見て動けずにいる。

「なんで?」

 そこで祖父は妹に笑いかけていたから、僕は祖父を殺そう、と思った。

 そんな顔をするな、と思いながら僕は三和土を乗り越えて疾駆する。左手には抜き身の真剣を構えて、僕は滑るように道場の床を駆ける。眼には祖父の姿しか映っていなかった。六尺を超える長身で……僕よりも妹の方が近い目線は、ずっと近くにいた僕にだってほとんど見せないようなしずけさで、妹を見つめていた。正気になんてならなくていい、と僕は思った。病んだままでいい、余計な機能なんてなくていいのに。どうせもう世界のことなんかなにも認識できていないくせに。だから祖父は恐怖でだけあれば、僕は僕を保てるのに。思いながら走って、間合いは詰まって、刃筋を立てることなんて考えもしないまま、祖父はそこではじめて僕を見て――
 刀を、振るった。

 そのときの祖父の顔を、この夜にいる僕は思い出せない。


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[ 2005/12/17 22:58 ] 夜明けのO | TB(0) | CM(0)
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