インクナブラ

 主に創作小説を掲載します。

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前編 

ギリギリアウトォ!
ごめんなさい。私は大嘘つきです。
いや、いや? 待て、待つんだ。
こんなコメントをいただきました。

>今日は31日で明日は32日なのでまだまだ余裕ですよね!

そうそれ!今日まだ十一月!
ていうか旧暦採用ですから!
よし、むなしい!
でもありがとうございます。

そして載せます。次かその次でちゃちゃっと終わるよ!



中編 虚孔


 墓場で産まれた。産声はあげなかった。臨月で死んだ母の胎からおれを取り上げたのは墓荒しの女だった。これは死体蒐集を趣味に、盗掘をたつきの道とする札付きで、精霊(ジン)と人との混血、失名者であった。彼女は自らを『鏡』(ミルアトゥン)と綽名して、稀に名乗ることがあればその通称を用いた。後年おれが言葉をつかうようになってもそれは同じだった。
 ここでことわっておかねばならない。おれの来し方に関したすべては、ミルアトゥンから伝え聞いたものである。おれにはその真偽を確かめる術はない。女の死体を開腹しておれを子宮から世界へ移した酔狂には何らかの意味があるのかもしれないし、あるいはすべてがミルアトゥンの虚言だという可能性もある。ともかく彼女はおれの生まれについては簡潔に語るだけだった。こんなふうにだ。

「当然のことだけれど、夜だった。星は遠く冷えた夜(ライラ)だった。ところで、わたしが死体を拾ってくるのは暴いた墓ばかりとは限らない。人がいればどこにでも死は息づいている。そして不意に訪れる。唐突な来訪のあとには、もちろん、死体が残る。ま、稀に残らないこともあるが――たいていは、残る。そしてこの沙漠の世界には死が溢れている。飢餓や病気や暴力や、もしくは事故による死がいたるところに落ちている。きみよ」と、ミルアトゥンはおれを名指していった。「わたしがきみを見出したのは、超出した暴力の夜だった。血と闘争と狡知と悪逆が跳梁跋扈していた。ああそうだ、わたしはその乱痴気騒ぎに名を連ねていたんだよ。そしてきみの母――の死体――を見つけた。誓って、わたしが手を下したものじゃないよ。わたしはきみの仇じゃあないよ。月満ちていた彼女の腹のなかにいたきみをそのまま放置せず取り上げたのがわたしだっただけだ。思えば数奇としかいいようがない巡りあわせだよね」

 その『数奇な巡りあわせ』を得ておれはミルアトゥンに拾われた。このオアシスにつれてこられた。そして幾久しく育てられた。
 さて、失名者であるミルアトゥンは名親にはなれない。よって彼女はおれを拾ってからずいぶんと長いあいだおれに名前をつけなかった。そのことについてもさして問題視はしていなかったようだ。
 かわりに、おれの持つ名前以外のすべては、彼女から与えられたものだ。失名者には相応しくなく彼女には教養があり、その持てる知識をおれに教え込んだ。だが、逆に言えば他のことは何一つ教えなかった。ミルアトゥンは隠者のように罪びとのように振舞って世俗からおれを徹底的に隔離しようとしていた。
「きみよ」とミルアトゥンはおれに言い聞かせたものだ。「わたしはきみを哀れに思うよ。きみに対して世界はあまりに厳しい。なぜならきみはとてもとても醜いからだ。ひとの世に出たところで痛酷な仕打ちがきみを待ち受けているだけだ。墓土を産湯に死人の胎を通ってきた哀れで醜いきみ。わたしはきみに出会って慈愛を知った。わたしはきみを守る。だからこの楽土から決して出てはいけないよ。外は猛暑にして酷寒の大地だ。邪知暴虐がまかり通り、今や堕落した為政者どもがただ私利私欲のために権勢を振るう世の中だ。醜いきみには耐えかねるだろうと思うよ。だから改めて、わたしはきみにみっつのことを命じたいと思う。よく聞くんだ――いいね。
 ここを出るな。
 鏡を見るな。
 わたしを愛せ。心の、底から――」
 そしてミルアトゥンは言葉どおりおれを絶対に外に出そうとはしなかった。いずことも知れぬ荒野に萌える一点のオアシス、その深きにある庵におれを閉じ込め、守った。身近にいたのはミルアトゥンとらくだのつがいが一組、山羊が一頭、そして地下の死人だけだった。自然おれは口のきける死人と親しんだが、長ずるにつれやがてそれもなくなった。おれは死人が嫌いになった。
 ミルアトゥンは、おれがある程度大きくなると年中庵を留守しがちになった。蓄えも底をつき方々に墓を荒しに行ったのだ。また文字も言葉も数字も芸術も、彼女からおれに教えられることはすでに尽きていた。
 あとひとつだけミルアトゥンが何より誇る技術、すなわち死体に関係する事柄だけは、世塵と同じように遠ざけられていた。かわりに彼女が帰るたびおれに与えたのは本だった。
 物語とのこれが出会いである。


 ミルアトゥンが持ち帰る書物は実に多種多様だった。辺境で語り継がれる説話をまとめたものがあり、素人史家の記した名も知らぬ町一代の興亡の記録があり、誰かが誰かへの恋をつづったものがあった。もっとも、おれはその全てを区別できなかった。どれも同じ文字の集合体であり何らかの世界を内包していたからだ。典型的な書痴だった。また文字に限らず、直接ミルアトゥンが仕入れてきた物語を口伝えされることもあった。
 目に付くものは全て読んだ。知らない文字でもミルアトゥンに乞い読み聞かせてもらった。やがて庵に堆積する書物のすべてを諳んじることができるほどになると、ミルアトゥンは一計を案じた。珍しく食事の席を設け、おれとともになつめやしの実とパンと珈琲とらくだの乳を啖べながら、こんな誘いを持ち出した。きみ、物語は見るばかりのものじゃない。読むばかりのものじゃない。与えられるだけが全てじゃないだろう。違うかね。
「何が言いたいの?」と訊ね返しながらもおれはたちまちにこの半妖精が言わんとしていることを理解した。「え、なに母さん。おれに物語を創ればいいといっているのか? おれに創作しろと」
「そうだ」
「無理無理無理。考えたこともないそんなの。どうすればいいかわからない」
「きみはいま手段を考慮している。物語るための方法に思いを巡らせている」ミルアトゥンの灰色の眼差しが酒精に濁り妖しくひかった。「それはすでに創作への階梯をのぼりつつある証だ。語りたまえ。わたしはきみの物語を聞こうじゃないか」
「そんなこと言ったって母さんはほとんど家にいないじゃないか」
「ん」
「なのにたまに帰ってきてはそんなことを」
「ごめんね?」
 えへへとパンかすをこぼしながらミルアトゥンは笑って謝る。
「はいきたよ誠意のない謝罪! 可愛く笑ってもごまかされないぞ。ねえ、母さんがいないときに思いついた話はどこへ行けばいい? おれは誰に向かって話すんだ? 書くんだ? 聞く人も読む人もいない物語をえんえん一人で繰り続けるのか。それはとても…虚しい」
「きみは考え違いをしている。物語は優れた文化だ。それは独立独歩の形象だ。読者が不在であろうと真の語り部は語るべき話を語るだろう。なにより、わたしが帰ってきたときに多く、長く楽しめるようにと考えればきみの意欲も増すんじゃないかな?」
「それは確かにそうだ。真の作家、真の語り部とはそうあるべきなんだろう。だけどおれはそうじゃない。いずれどうなるかはわからないがまだおれは物語の一端に触れたばかりの駆け出しだ。その境地へは到底追いつけない。それに、いつ帰ってくるとも知れない母さんを待ち続けるのには限度がある。またこうも思うんだ。母さんに聞かせることを目的とした瞬間におれの物語は――そんなものがあるとして――その本質を侵されるんじゃないか? 先々のことはわからないけど、今すぐにそうなってしまうのはよくない気がする。なんとなくだけど物語りは開かれているべきだと思う。読者を選ぶような物語は傲慢だと思う」
「そうか…そうだな。そのとおりだ」ミルアトゥンは神妙に首肯した。「ならば今言ったことは忘れていい。早急に手を打とう。きみよ、ここに同居人がひとり増えても構わないか? また恐らくきみはやがて喪失の痛みを識ることになるがそれも厭わないか?」
「わからない」おれは素直に答えた。「ただ、ここを出ず母さんとおれ以外の誰かに会えるのなら会ってもいいと思う。母さんが言うように、そのひとはおれにつらく当たるの?」
「それはないさ、安心したまえよ、きみ」ミルアトゥンは請け負った。「かの老人もまたわたしと同じだ。失名者だ。名を真珠(ルールーン)という翁だ。かれには死期が迫っている。かれは死に場所を探している。きみがいいと言うなら、かれが死ぬまでの幾月か――幾年か――あるいは幾日か、ともに過ごすといい。かれは達見で、知恵者で、また優れた読誦者(カリウン)だ。他の全てを費やして物語の蒐集に血道を挙げた最古の狂人だ。今や死に瀕した、元始の『詩人(シャーイル』にして『精霊びと(タジュニン)』――かれが語る物語は決してきみを退屈はさせまい。また同時にきみを孤独から救うだろう。だからきみもきみが繰る物語でかれの生を慰めるんだ」
「おれが、そのひとを、慰める?」
「しかりだ。かれはもう長いこと物語以外の現象に反応しなくなっているからね。なにより、きみはかれから物語を受け取るんだ。ならば与えるべきだ。甘えるなよ。妥協もするな。言い訳もするな。自らの精髄を尽くし古今東西に通じるかの偏屈な翁の驕慢な書欲をくすぐってやるんだ。できるな?」
「わからない」おれは不安になっていた。できる気がしない。
 ミルアトゥンは敏感にその弱音を察知した。その眠たげな双眸が厳しく細められた。
「やれ。きみよ。思い定めたならば揺らがずつらぬけ。千年の磐石の死に水を取るにふさわしい仕事をしてみせろ」
 おれは頷いた。
 そしてルールーンとデネブに出会うことになる。


 半年の後、ルールーンはミルアトゥンとその従者の死人によって運ばれてきた。かれはあまりに老い、枯れていたのでおれは最初いつもの死体と区別がつかないほどだった。それどころか一見して人間かどうかも怪しかったくらいだ。
 家屋の床に横たえられた体躯こそ堂々たる偉丈夫のそれだったが、よく観察すればその生身のそこかしこが石化していた。顔面をくまなく覆うしわはひび割れそのもので、閉じられた目や唇がどこにあるのかもわからなかった。かろうじて鼻梁の隆起が確認できるだけで、かれには毛髪すらなかった。ときおり服の隙間からこぼれる角質は破片そのものだった。ぜんたい、人やそれに類した生き物というよりは、天然にそれを象ってしまった岩石か、あるいは不恰好な彫刻のようにしか見えなかった。半人半霊はあまりに年経るとこうして無機物のように朽ちていくのだとおれは初めて知った。
「わたしたちは死に拒絶されたんだ。いわゆる、約束の地からね」とミルアトゥンは語った。

「だからこうした無機的な結末だけがわたしたちを待ち受けている。わたしたちは血を流しても死なない。傷つくが、死なない。ただ壊れていくだけだ。そして砕かれ、崩れると、終わる。消える。それだけだ。それは死じゃない。わたしたちは生を活きていないから」そして、とルールーン老の朽ちていく肉体を眼差した。「この古い失名者がその体現だ。見るんだ、かれを。かれにはもう記憶はない。意思もない。ただ指向性と、何万何億という物語をおさめた記録、そしてそれを語る器官以外は何もない。そういう器械なんだ」
「……」
「詮ずる所、かれこそ失名者の典型さ」ミルアトゥンはそういい残して再び旅の準備を整えた。ルールーンと、そしてもうひとり、世話係の少女死人を残し、こんな言葉を付け加えて。「きみに癒せるかな? 癒せればいいと願ってる。でも、きみがかれから得がたいものを与えられるのは、これは願うまでもないことだ。首尾よく、きみよ。ではさらばいばい。らびゅー☆」

 らびゅー☆じゃねえ。とおれが思う間もあらばこそ。ミルアトゥンは庵の門前からその姿を消していた。彼女の隠行は人智の及ぶところではない。おれはオアシスの縁ぎりぎりまで行って四方を占める広大な砂漠の果ての果てまで目を凝らすが、いつもどおり育て親の後姿はどこにも見出せなかった。

「行ったか。さて――」

 無音で背後に立つ少女をかえりみた。黒髪で黒目(カラギョズ)、肌膚(はだえ)もまた褐(かちん)に染まっている。背丈はおれと対等で、体つきもしなやかで比較的鍛えられている。
 彼女の、ミルアトゥンの術によって情動を奪われたはずの眸はひたすら静かにおれを凝視している。似たような死人をおれはいくつも目にしているが、ミルアトゥンを介さずに接することは少ない。おれはこのやや年かさに見える少女を邪険に扱った。
「ミルアトゥンはおまえを何のつもりでここに残したんだ?」
「世話をさせるためでしょう、あのルールーンという半死人と、そして『ぼっちゃん』、あなたの」あけすけに蔑みの色を見せて少女はおれを見下した。
「……?」
 おれは戸惑い、焦った。このような反応を見せる死人は初めてだ。ミルアトゥンのつかう死人はつまるところ本当の意味の奴隷であり、消耗品である。支配階級たるマムルークや国政を左右するイェニチェリとは違う。純正の端女。そのはずだ。
「おまえは死人のはずだ。心がないはずだ。なのに、ずいぶんと毛色が違う」
 少女は自棄的に、吐き捨てるように笑った。
「あなたがたのおっしゃることなんて何一つわかりませんよ。異教徒の考える常識なんてものは知らないんです。だけど、どうやら確かにボクはその『死人』ってやつなんでしょうね。事実、あの『鏡』とかいう魔物まがいの女の言葉に、ボクはもう逆らえない。それはどうやらあなたの言葉でも同じようだ。ろくでもないことにね。ああ、ほんとうにろくでもない! どうせなら、あのとき、あの場所で死ねていたらよかったのに! そうすれば今ごろは、神の御許にボクはいたのに! いまではそれも許されない」
「おまえの出自になんて興味はないよ」おれは冷然といった。「これは善意からの忠告だが、思い出しもしないほうがいい。おそらく過去はもうおまえを慰めないだろうし、いまの悲嘆をいっそう際立たせるだけだろうよ。これからは先のことだけを考えるべきだ」
 少女は捨て鉢な笑いを深める。
「先! 明日! そんなものがここにあると? こんな、死に損ないのボクが連れてこられた世界の果てで――?」
「ないと思うならそれでいい。欲しくないっていうのなら、おれはその意思を尊重するよ。おまえたちはだいたいそうだ。ミルアトゥンが興味をなくし、一通り験しごとも終えたら、まず近場のおれに擦り寄ってくる。そしてほんの短いあいだ、かってな風に振舞って、やがて絶望し、おれに死を要求してくる。いままで四人ほどそんな死人の最期を看取したよ。だからもう慣れている。埋葬の手順も心得ている。さあ、おしまいにするか? おれはどっちでもいい。準備はできてる。円匙も短刀も、欲しければ墓標も、庵にはあるぞ」
「……」
 ようやく口上を収めて、少女は沈黙した。言っておくが、おまえたち死人はミルアトゥンの許可なくこのオアシスからは出られない。そういい捨てておれは庵へと戻った。少女は夜になっても戻らなかった。
 おれの興味もあの死人には残っていない。
 それよりもルールーンだった。
 かれは最前と変わらぬ場所に、変わらぬ姿勢で横たわっていた。微動だにしていなかった。呼吸はない。脈も一見ないように思えた。が、実はほんのかすかに鼓動しているのだった。さもありなん。心臓は知性のありかである。知性なくしては物語を語ることなどよくつとまるまい。
 しかし動かない。
 目覚めない。
 ルールーンは黙したままだ。
 化石して今にも末期の淵へ手をかけているのだとミルアトゥンは語った。あるいはこうして眠ったまま微睡のうちに崩れ落ちてしまうのかもしれない。
 それではなんのためにかれをここまで連れてきたのだかわからない。さして広くもない庵の一室を占拠させているのだ。ああまで誉めそやされた語り部の腕前に、一度なりとも浴したい。
 改めて、生物とは思いにくい目前の容貌を見直した。嫌悪や忌避の思いは沸かなかった。それを言うならばおれこそが『この世でもっとも』醜いのだ。他者の見目をどうこうとあげつらう資格はない。
 砂と風と時間と宿命に浸りきって擦り切れたルールーンの膚におれは手を触れる。固い手触り。そして崩れる形。かれはきわめて繊細な壊れ物だった。砂に描いた絵よりもなお倍増してはかなく、もろい。かれに命はないが、おれはかれを癒したいと感じた。
 だがどうすればいい、癒すといっても? かれを苛むのはもはや傷ではなく疵だ。特にひどいのは喉元にぽっかり空いた太虚である。只人ならばむろん致命の傷だ。癒しようもない。それとも塞ぐか、にかわでも詰め込んで? それもいいかもしれない。最後の最期にはそうすることも考慮すべきだろう。だがまだそのときではない。
 おれはルールーンを敬うべき先達というよりは貴重な宝物と見なし、丁重に世話することを決めた。まず慎重に、決して体を崩さないよう、みのごいで拭浄した。次にただ体を水平にするばかりでは崩れる一方なので、負担がかからないと思われる姿勢を固定できる椅子にかれを移した。ルールーンはされるがままだった。一通りの作業を終えると、おれはすっかり疲弊して自室へ戻った。いいかげん寝みたかった。
 その寝室に、いつの間に忍び込んだものか、先ほどの少女が先回りしていた。
 全裸で。
 おれは口をぽかんと開けて、仁王立ちする彼女へ問いかけた。
「狂ったか?」
「狂ってない」瞑目して、訥々と少女は語りだした。「考えたんです」
「考えた?」
「考えました。さっきから今までずっと。この夜の冷たい月に沐浴して」
「何について」
「神と信仰について。ボクがあなたたちに奪われたものについて!」
 ようやく開けた双眸には瞋恚がまざまざと燃えていた。まったく、もっとも大事なものを奪われ、隠され、捨てられた怒りに違いない。おれは両手を挙げた。
「それがミルアトゥンの手練手管だ。もうおまえにそれは還らない。それどころか、時が経つほどに遠のいていくぞ。多くの死人が改めて死を望むのはそのせいだ。『鏡』の魔術はそういう性質を持っているらしい。もっとも、おれにはその術理は毫もわからない」
「かえして!」
「無理だ」おれは壁際に立てかけてある長刀を取って鞘を払う。心得はないに等しいが差し出された首を狩るくらいはたやすい。「だが方法はある。保障はできないが――あるいはまた死ねば、戻れるかもしれない。おまえの同類はみな、そんな一縷の望みに賭けて自尽を決意したよ」
 少女がせせら笑う。
「ボクを殺すと? そのへっぴり腰で? そのか細い腕と体で?」
「おまえが望むのならだ。さっき言ったとおりだ」
「……」しり込みしたように唇を噛んでおれを睨む。
「それを考えるべきだったな。神だの信仰だのではなくて」
 おれはため息をつくと、刀を置いた。少女の眼が露骨にそれを追えば斬るつもりだった。意に反して、少女は得物には眼もくれなかった。不思議はない。対峙する女の肉体は若く精悍だ。一枚の肌をはさんで強靭な力が躍動するのがはっきりとわかった。よほどの選りすぐりか、でなければ特殊な環境で育まれた肉体なのだろう。
 今さら手間ひまをかけてミルアトゥンがこうした死人(ゾンビ)をつくったのだから、少女が稀有であることは考えるまでもないことだった。あるいはこの死人らしからぬ不安定な情緒も、その特殊性に由来するのかもしれない。
 おれは裸体を押しのけ、燭台に火を灯した。香油がほのかに香った。少女はもの言いたげにおれの後頭部を見続けたが、構わなかった。おれは読み止しの書を手にとってうるさげに手を払った。
「出て行ってくれ」
「あなたは優しくない」吐き捨ての返答があった。「ボクがこのかっこうでここにいることの意味もわからない子供なんですか? ずいぶんと才走った物腰のわりに、まったく男らしくないですね」
 おれは無視した。暫しと俟たない内に、少女は罵倒のうめきを漏らし、布を身にまとって退室しかけた。去り際に彼女が鋭い声で囁いた。
「あなたの名前を聞いてませんでした。『鏡』はボクのほんとうの名前を奪い、デネブと号した。あなたの名前はなんていうのですか?」
 無視を続けて文字を追った。だが、目は紙を上滑りするばかりだった。名前、名前――。
 おれにはそんなものはない。
 デネブと名づけられた奴隷は憤懣やるかたなく鼻息を漏らして、消えた。
「ではおやすみなさい。ぼっちゃん!」
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[ 2007/12/02 00:02 ] 小説 | TB(0) | CM(0)
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