インクナブラ

 主に創作小説を掲載します。

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夜明けのエディプス・5 

 五と聞くと孫呉を思い出す。嘘です。
 次で終わりです。これは本当。
 


 手応えは鈍器のそれだった。にぶく、斬っただなんてとても思えないような濁った感触。不出来もいいところのその打突は、しかしたしかに祖父の額を切り裂いた。
 渾身の反動で僕は横滑りしながら、手首にはしる鋭い痛みを感じながら、でも動くことを止めなかった。もう一刻さえ、この祖父の存在を許容するわけにはいかない。螺旋は限界まで巻かれた、だから僕は巻かれた螺旋が戻りきるまで止まらない。これは走り出したら止まらない、そういう種類の仕掛けだった。僕がずっと育てつづけてきた殺意は、のぞまない形でだって吹き出せば全てを出し切るまで止まらない。

 ぽたりと音を立てた朱色が床を汚す。

 痛いほど、空間はしじまに満ちていた。妹はまるで反応できない。僕の呼吸だけを僕は聞いている。僕の視線は祖父に釘付けられて、僕のこわれかけた両手はまだ刀を握っている。

 もう戻らない、と僕は思った。
 だから、ここで殺す。

 その殺意に呼応するように、一瞬の停止のあと祖父は動きだした。片手に木剣をさげ、片手を額の傷口によせて、ぬるりと血に指をすべらせる。まるで化粧のように血は祖父の顔を汚していたんだろうけど、僕はあまりにも興奮しすぎていて祖父の顔も姿もまともには見えはしなかった。

 ただ、この季節だけを感じとっていた。蝉の声は遠く時雨のようにふりそそぎ、天窓からは木漏れ日が射しこみ、細い光の格子をいくつも薄暗い道場のなかに垂らし、複雑な模様を床に作図している。今まで僕が一度も感じたことのない、それは静けさ、穏やかさだった。それを不思議だと思うことももうなかったけれど、僕にとって痛みと暴力の記憶でしかないこの場所に吹いている風は、たしかに涼やかだった。

 ひゅっと、妹が吸気する音が場にノイズとしてはしる。それが合図だったのかもしれない。僕と祖父は同時に得物を構えた。僕は祖父の胴田貫を、祖父はぶあつい素振り刀をそれぞれ手に持っている。

 問答はなかった。僕は話なんてできる状態じゃなかったし、祖父はじっさいもう長いこと、意味の取れる言葉なんて話してはいないから。だから、交わす言葉なんて僕たちは持ち合わせてはいなかった。今までずっとそうだったように祖父は僕を痛めつけるために剣を振るうし、今日このときのためにだけ研がれつづけてきた僕も、祖父を殺すことのほかには何もない存在になる。

 だから世界は平坦になる。
 殺そう、と迷いなく、僕は思うことが出来た。
 今の僕なら、それが出来る。

 大上段に振りかぶった祖父の構えは、今まで一度も僕が見たことのない構えだった。無形の位を、いつもの祖父なら押し通すのだ。だけど、僕に動揺はない。それはある程度予測済みのことだった。祖父は技というほどのものを僕に教えはしなかったけれど、祖父自身はたぶんどこかの内伝を受けている身だと、だいぶまえから目算はついている。
 だから僕は僕の剣を振るう。僕は、

 祖父の剣が落ちた。

「あ、」

 思考は完全に空白だった。爆ぜるように、直前の位置から祖父の両腕は消えている。けれど、眼で追うことができない打突なんてありえない。だから僕は受けに回る。回ろうとして若干袈裟懸けに振り下ろされる祖父の一撃を受けとめ、

 僕の刀は圧し折れる。

 祖父の木刀が僕の真剣を切り落としたのだと、僕は思考した。思考した瞬間、僕が積みあげてきたすべては無価値になった。木刀を真剣で受けた。その間抜けさを呪うこともせずに笑った。誤った。誤った。誤った。誤った。その愚かさだけが刹那の内に無限に反芻されて、左鎖骨を圧壊させる一刀が首筋に吸い込まれていくのを、無感動に見送った。

 体内にだけ大きく響く骨の砕ける音に遅れて、存在を両断される痛みが僕をうちのめした。痛みに慣れていたって結局は痛がりの僕は、折れた刀を手放してのたうちまわった。泣き叫びながら、僕は何かを呪っていた。

 そして祖父の花崗岩みたいな足の底が視界一杯を埋めつくす。

 がつんと後頭部が床に打ちつけられて、血の詰まった鼻腔の奥で火薬みたいな臭いがはじけた。ぶちぶちという音は歯がこぼれ抜け落ちた音だろうか。からからと口の中でそれは音を立てて、咀嚼されることもなく、血といっしょくたになってのどの奥へと沈み込んでいく。絶叫は血の奔流にさえぎられて、僕はそれでも吠えることを止めなかった。

 叫ぶたびに、祖父の容赦のない暴力は僕をうちすえる。どれだけ劣化したとしても、それは苛烈に僕を責めたてる。肉を打ち、骨を折り、心をくじけさせる。

 それでも僕は声を出すことを止めない。

 なぜならこれでいいわけがないからだ。僕はまだ生きていて、祖父がまだ生きているからだ。
 発条はもう巻かれたのだから、僕は僕の全てが力尽きて終わるまで、動くことを止めてはいけないのだ。
 この次なんて、僕は考えたくはなかった。二度目があるという思考はすべてを無価値にするのだ。そうして、痛みを知らなかった僕の世界は色を失っていったんだから。だから、いくらろくでもない僕だって、そんな無様を許すわけにはいかなかった。
 でも立ち上がれない。痛くて痛くて心は言うことをきかない。痛みは、どんな意志だってあっさり圧し折ってしまう。祖父が打ち下ろした木刀が僕の真剣を砕いたように、ほんの一瞬のまちがいで泡みたいに全部を無に帰してしまう。

 血だまりのなかで陸にうちあげられた魚みたいにして、僕は踊っていた。あー、あー、あー、あー、言葉を知らない子供みたいに、痛みを泣き叫んでいた。その痛みの情報量は思考の余裕をあっさりとうばいさって、だから眼や耳がとらえていた現実はうまく脳にとどかない。父を連れてきた妹とか、とおくで聞いたサイレンとか、そういったものを、僕はどうしても現実とは思えなかった。

 ただ、思う。これで終わっちゃったな、と。もう狂った祖父の介護をすることも、僕の名前を思い出さない祖父を見て複雑な思いに駆られることもない。僕がいるのに母を呼ばわる祖父をみて、吐きたくなるくらいみっともない感情をおさえつけることもない。
 善し悪しを問うのなら、それはいいことのはずだった。この屋敷に生きるものは誰一人として祖父に怯えないものはなかったから、これは間違いなく解放だった。
 そして、祖父から屋敷を解き放ったのは僕ではなく父だった。僕より長く祖父の家族をやってきて、きっと僕よりも重く祖父を想っていたであろう父は、僕よりも大きなその器にきっと色々なものをためて、僕と同じようにこの夏にその臨界をむかえたんだろう。
 だからこれは、父の叛逆だった。
それも終わる。祖父は消える。そして僕も止まる。すべては、この日、終わったのだ。

 絶望と失意と血と涙でできた底無しの沼でのたうちまわりながら、僕の意識はそこで終わる。祖父はいなくなる。永遠の別離だと、僕はなぜか直感していた。僕の全てを賭けた叛逆は、妹……いや父の、僕とは関係無いものを賭した叛逆にとって替わられてしまった。そのどうしようもないほどの哀しみが、痛くて動けない僕を動かす唯一の動力なのかもしれなかった。沈み込んでいく意識のなかで、僕は手を伸ばす。

 これでいいのか? これで終わりなのか? ほんとうに? 断ち切れるはずもない未練は僕をさいなむ問いを無限に重ねて、生まれて初めて、僕は真実の意味で取り返しのつかない喪失を経験した。



   ‡‡‡



 その喪失の痛みのなかで泣き喚く僕を追想しながら、僕は疑念する。僕の記憶はここで終わりだ。僕にとっての祖父はここで終わりだ。僕の全てを賭けた叛逆はちょっとした手違いと不運にからめとられて失敗して、僕の存在も失敗に終わった。それが僕の物語の結末だ。

 だけど、と僕は思う。それならこの夜はなんなんだ? 月も星も消えた闇のなかで、僕はたしかに恐怖と……祖父の存在を感じとっている。
 僕の叛逆が終わったっていうなら、僕にだって祖父と同じく次はない。僕の生誕は完全に失敗に終わって、だから僕は終わるしかないはずだ。
 だけど……僕はそのあとも夜を重ねていた。どことも知れない、いつとも知れない真夜中、寝苦しさにめざめ、喉をうるおすものを求めて、今はもうどこにもないはずの離れから脱け出して冥い暗い廊下を抜けて……祖父を感じている。

 だけど、祖父はもういないはずだ、それはたしかだ。

 なら、この存在はなんなのか? 僕は、祖父は、切り落とされた手首は、いったいなんの残滓だっていうんだろう? それを明らかにしないことには、この葬送の夢を終わらせることはできない。交差して、なのにすれ違わないままに終わった僕と祖父との撞着に吹き込んでいる風を止ませることはできない。
 だから、僕はいつの間にか手の中にある刀を構える。

 今度は間違えないように。



   ‡‡‡


 この夜にいる。古ぼけた部屋から脱け出して、通りすぎるべき廊下はもう終わる。
 だから、僕はもうすぐ産まれる。

 そして、目の前には左腕を切り落とされてうずくまっていう少年がいた。背後には少年を見おろす壮年の男性がいた。僕は血だまりのなかに指をあそばせることを止めて思考を始める。僕は何を観ているのだろうと思う。誰の記憶を見せられているのだろう?
 少年は流れる血も痛々しく、目の前でぼうとしている僕に助けを求めるような視線をよこす。だけど僕はそれを無視して、少年から離れていく男性を追いかけた。
 追いすがってくる少年の手を振り払う。さわるな、と僕は言う。

「おまえなんか、僕は嫌いだ」

 それを口にした瞬間、闇が割れたように思った。そして口にした僕は、自分がどうしてそんなことを言ったのかがよく分からない。意味を探ろうにも、瞬きひとつした後には少年は消え去ってしまっていた。そして、祖父の気配も。
 そこにはただ血だまりと手首だけが残っている。それは相変わらず不快なものとして感覚されたけど、今となってはもうどうでもいいことだった。僕は思い出したのだ。……ようやく、思い出したのだ。長い長いこの夜のなかで、暑くて深いこの闇のなかで、僕をとらえてはなさないこの檻みたいな屋敷から脱け出すために、僕がするべきことを。
 ほかの全てのことなんて、だから瑣末だ。

 だから僕は祖父を求める。この夜のなかで祖父を探す。僕にとってのただひとりの家族、ただひとりの仇をもとめてさまよい歩く。
 この手のなかには、あの日、僕がかかげた刃がある。

 僕は走る。走りながら、祖父の面影をその夜に探す。それは恐怖を探りあてようとする、ある種無謀な行為だった。出会ったところでどうにもならないかもしれないし、それ以前にあの日すべて終わったことを今さら取り戻せるなんて、そんな都合のいいことが僕の人生なんかに落ちているわけがない。
 それでも僕は恐怖を求めた。祖父を探した。ガタガタと歯を震わせながら、涙を滂沱と流しながら、屋敷を走りまわった。
 あのぬるい子宮(へや)を脱け出て真っ暗な産道(ろうか)を軋ませながら通ったときから、僕はすでに自由だった。この月のない夜に、僕を遮るものはひとつだけだった。そして僕はその唯一を求めて夜を駆け抜けていく。
 祖父を探す。障子を蹴破り襖を蹴倒し、廊下を駆け抜け階段を駆け下りる。
 この暗い夜に目ざめを運ぶように、僕はむちゃくちゃに騒ぎながら走りまわる。
 闇の棲むこの古ぼけた屋敷のなかで、僕はいろいろなものをみた。離れで首を吊っていた祖母、祖父の部屋で白い蛇みたいにうねっていた母、道場で僕の大事なものを汚した妹、廊下で切り落とされた腕を抱きしめる父、いろいろなものを僕は見た。僕に刻まれた傷を数えていくそれは、思い出を拾うのにも似ていた。この古ぼけた屋敷のなかは、僕の傷で満ちみちていた。どこを探したって、僕を傷つけなかったところなんて存在しない。

 だけどそんなのあたりまえじゃないか?、と僕は思う。僕の中心にはあの祖父がいたんだから! 痛みを与えることでしか結局僕にふれなかったあの祖父が、僕の真ん中にはいたんだから! だったら、僕の記憶が傷だらけなことなんてあたりまえのことにすぎないのだ。それもこれも、僕が祖父を殺して生まれるための代価にすぎないのだ。

 そうして僕の屋敷(せかい)はひとつのこらず僕に拾い上げられて壊されていく。僕は家のなかをあらかた探りつくして困り果てる。祖父の姿はどこにもない。
 なら家を出ればいい、と思う。
 思ったのならあとは行動するだけだ。僕はなんのためらいもなく玄関へ向かう。その足を止めるものはここにはもうない。僕は何もおそれず、恐れるものを探すためにこの記憶を胎内に置いていく。
 軋む廊下を通りすぎ、暗い部屋を突っ切って、僕は玄関を抜ける。刀を手にしたまま生まれて初めてお祭りに行く子供みたいに胸を躍らせながらこの夜の外へ出る。

 さて、僕の家のすぐ前には通りがあって、門構えのりっぱな玄関を抜けてその通りに立てば左のほうには四つ辻が見えるのだけど、なんでもそこは昔、ずっと昔、辻斬りが現れたといういわくのある辻なのだそうだ。

 そしてその辻に、祖父の形をした影は立っている。

 ああ。
 僕の全ては恐怖(よろこび)で満たされる。
 ああ、と思う。僕は抜き身の刀を提げながら、一歩一歩その辻へ向かって歩いていく。
 家を出たところでこの夜にかわらず月はなく、星もなく、音は絶えて風は腐り、夜は重く沈みこんで朝の浮上なんかどうしたって信じられないほどに暗い。
 それでも、と僕は確信している。終わりはちかい。どういうかたちなのかはまだ不確定だけど、でも、確実に終わりはすぐそこにまで来ている。
 足下にある土の感覚も、鼻をつく夏の匂いも、体をなでる風のぬるさも、手にある真剣の重みもなにもかも、その終わりをしらせている。大音声でうたいあげている。
 ここはどこだろう、と僕は思った。ここはいつだろう。あの夏からどれくらいの時間が経って、僕はここにいるんだろう。この僕は誰だろう。いつの僕だろう。ここが終わって、そうしたら僕は、どこにいけばいいんだろう?
 まあどうでもいいや、と僕はつぶやいた。そんなことは、ほんとうにどうでもいい。そんなものはどこかの心理学者の夢占いにでもまかせておけばいい。赤ん坊の泣く理由をうたった作家にでもあやかっていればいい。僕はそんなことには興味がない。生きてるんだから、生きていくだけだ。

 そして、僕は辻に立つ。

 きっと、五十年か六十年かそれくらい前、祖父はここに立って人を斬ったんだろうと、僕はなんの根拠もなく確信していた。それは迷信のような、でもなぜか疑う気の起きない、そんな直感だった。ここで祖父は鎌鼬だったのだろう。風が吹くたびに人を斬る剣だったんだろう。

 ここはきっと修羅の風が吹いている岐(ちまた)だから、僕はその風をいいかげん止めようと思う。


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[ 2005/12/17 23:02 ] 夜明けのO | TB(0) | CM(0)
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