インクナブラ

 主に創作小説を掲載します。

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グッドバイ2008 

メリークリスマス!
ちょっと今洒落にならない修羅場なのでもうしばらく更新はなし。
ひとけも絶えたころに思い出したようにこんなこと言うあたり反省の色が見えないので、生爪を剥がせばいいと思います。

でもそれだけだとこのクソ忙しい年末年始にひょっとしたら見に来るかもしれない人に申し訳ないので、なんか適当に貼っておくことにしましょう。未完成というか発表用の文章ではないのでそのうち消します。そのうち。


少女結果オーライ




第一部「少女メイクライ」

 1

 とりあえず後輩の女の子に「初体験はいつだれと?」って聞かれて「十一歳で近所のおねえさん」とか得意げにばかっぽく答えられる感性が欲しい。「うぅうぅん?」とうめくおれ。「ふんふんふーん?」とギターを弾く後輩。おれはカンカンの太陽がチンチンに熱した漆喰壁にもたれて頭に絡む羽虫を追い払いながら言葉を探した。どういうべきだろう。「おれは若干十七歳にしてセックスフォビアの傾向があり、理由は文脈どおりに初体験に根ざしており、もっと詳しく言えばはじめてのセックスにまつわる色々な事態がおれの性的な好奇心みたいな健全な心理を枯らしてしまったのだ」? まあこんなところだろう。言いふらすことではないけどもったいぶってもしょうがない。
「小学生の時に年上の人とやったのが最初だな。たぶん」
「たぶん?」
「曖昧にしたいおれの機微を察しろよ宇野。そこは厭離感の表れだ」
「へえ遠近感……パースっすか。って、しょうがくせい……ええ! ハテハラ先輩初体験小学生? 早熟にもホドがないすか。っていうか犯罪の香りがするんですけど相手そのとき何歳?」
「えー何歳だったっけなうぅん、二十二か三くらいかな?」
「はい犯罪決定っすね。ひくわぁ……で、それでなにがあったんすか軽くトラウマってますよね? レイプですか?」
「いや一応和姦」
「はぁ!? うわーひくひくひきますよそれはぁ。とんだエロガキもいたもんっすね」
 スカスカうるさい口調の宇野ティカは無駄に洞察力に長けている。膝をたたんで座り込み、蓮っ葉な調子で弦を押さえるのに四苦八苦している様があほっぽくていい。しかもわざわざ体育祭真っ最中の校内で、体育館の二階外廊にまで来て隠れて弾くあたりどうしようもなく頭が悪そうで、そんなところがますます可愛いとおれは思っている。実際「将来はランボルギーニ乗りたいっすね!」とか言っているけれどこいつはたぶんカウンタックをすげえ軽トラか何かとしか認識してないだろう。そもそもボラギノールと区別がついてるかどうかあやしい。やたらクルマに詳しいのはちんぴらの特性だが、頭髪がプリンカラーでも田舎のヤンキーみたいな身なりをしていてもこいつはちんぴらではない。友だちもいないただの孤立っ娘である。地面を懸命に走る蟻さんに根性焼きしてる様子を見ればその理由も想像しやすい。
「トラウマっていうのかなあ。とにかく酷いことになったんだよ」
「酷いことって?」
「酷いことは酷いことだよ。それ以外言い表せないよ。思い出すのもしんどいくらいだよ。結構時間経ってるのになんでなんだろうね」
「それはしょうがないっすよ。時が傷を癒すとか言うけどあれウソっすから。あんなの深い穴を掘ってそこにゴミ捨ててとりあえず満足するのと変わらないんすよ。時間が経って雨や土や砂や他の色んなことが堆積していって化石の埋まった地層みたいに事物を埋葬してしまっても、それはただ過去の傷を客観化しただけっす。傷も痛みもどれだけ時間が経ったってそこには残ったままなんすよ。ふとしたことでケーキナイフみたいな鈍い刃先だって地層を掘り返すし、そうすると感慨だって鮮やかに再生されるに決まってるんです。あれっすいわばエックスファイルっす」
「ふーんそおなんだ」
 相槌を打ちながらコイツ全く上達しないなーとおれはぼんやり考える。宇野ティカは頭が悪くて友だちいなくて哀れで顔もそれなりに綺麗で痩せぎすだがスタイルは悪くない。おまけに足のかたちが美しい。だからおれは宇野が好きだ。丁香と書いてティカという残念な名前も他人事に思えず面白い。宇野もたぶんおれを憎からず思ってるだろう。強引に誘えば弱みにつけこむかたちで付き合える可能性も低くない。だがおれはそうしない。倫理とか道徳がそうさせるのではなく、ただおれの恐怖心がセックスの結果に釘付けされているせいだ。
 おれは射精が恐ろしい。
 だからオナニーも滅多にしない。例外は尿検査を控えた時期くらいだ。あれは前日にマスをかけばタンパクが出るが全く射精をしなければしないでやっぱりタンパクが出る。ひどい話だと思う。一度そのせいでなんか大学病院とかまで連れて行かれてひどい恥をかいたからこれは確かな話だ。以上のような理由でおれは宇野とのこのくすぐったい距離感を決して詰めずに楽しんでいるわけだけれど、そもそも今彼女いるし、だいいち恋愛関係の延長線上にセックスのあるノーマル女子高生であろう宇野とおれが上手く行くこともないだろう。
「でもじゃあ合意の上なのに、どうして心の傷になっちゃったんですか?」
「うんそうねー。どうしてなんだろうねー」
 郷愁や恐怖がない交ぜになった気分で空を見上げた。十月十六日の空は雲をたなびかせ肌寒さと冷涼さの境界を行き来している。グラウンドでは体育祭が佳境に入っており、喧噪から距離を取るおれたちは心穏やかだった。もちろんおれも宇野もエントリーしていた競技にはちゃんと出席し終えている。もともとおれは体を動かすのは大好きだし、サボろうと思ったわけではなくただトイレに行って帰ってきたらわざわざこんな日にギターを弾こうとしているバカな宇野に捕まっただけなのだ。スピーカから流れるショスターコヴィチのシンフォニー五番第四楽章がすごいうるさいのでゆっくり思い出にも浸れないが、懐古するだけならば簡単だった。ただ舌の上によみがえる苦味を吟味するいとまもなく、すべてを見透かしたいやらしい笑みで宇野ティカは真実を言い当てる。
「わかったぁ。わかっちゃいましたよ。先輩失恋したんでしょ? マジボレだったんでしょそのおねえさんに? 小学生のくせにマジになっちゃってそんでふられたもんだから、へたに肉体関係持ったぶんいまだに引きずってるんじゃないっすか?」
「だいたい当たってる」
 かっはっはと嬉しそうに笑い宇野がまたエレキギターの弦を爪弾いた。「いいですね~ホロ苦いハツコイ~」とほんとうに楽しそうに言っている。
 そうなんだけどそれだけなら良かったな。本当に心からそう思っている。
 宇野はおれが射精恐怖症とは知らないし、さすがに見抜けてもいない。薄々感づいてはいるだろうが、そこを上手く踏み込んでこれるスキルがあればそもそも宇野は孤立しなかっただろう。そういうところがこいつの悲劇だろうとおれは思ってる。それは誰にでも備わってる悲劇の種であり、発芽するかしないかは機微に委ねられるものだ。ただ水を与え養分を与え孤独というかたちで開花させたことは宇野の責任だし、そこは当人も自覚している。おれは本気で好きになった女からは自由と思考と責任と半径三百メートル以外の社会を奪うべきだと考えているので、そういう意味では宇野の性質は非常に好ましい。ただその指向がどれだけ傲慢で偏狭かもわかっているから、やはりおれはそれを実現できる可能性のある宇野とは付き合うべきじゃないんだろう。たとえセックスのことを除いたとしてもだ。
 そんな考えをあるいは宇野は読んでいるのかもしれない。気のある素振りでおれのこういった思考を誘導しているのかもしれない。女の子に生まれついたからには誰だってそれくらいの駆け引きはお手の物だろうとおれは半ば信仰しているから、そんな疑いも捨てきれないのだ。
「あれ、古傷抉っちゃいましたかあたし?」
「いやそんなことはないけど」というか古傷じゃないんだなこれが。実は。
「そうそう、忘れたほうがいいですよ。昔の傷も痛みもなくならないけど、心構え次第で忘れ続けておくことはできるんすから。その時点その現在のちっちゃな先輩は未来永劫苦しいことからバイバイしないかもしれませんけど、そのちっちゃい先輩を先輩はずっと切り離してしまっておくことはできるんですよ。分離されたちっちゃい先輩は今の先輩との連続性を失い続けて、ゼロにはならないかもしれないけどゼロにずっと漸近していくし、そうやって他人事みたいになった過去がやがて完全に黒ずんでしまえば、それは実際完治したのと同じことになるでしょう。だからともかく立ち向かえない大きな傷からは眼を離し続けるべきっすね」
 それは正しい処方だけれどとても前向きな姿勢ではない。宇野の処世術の一環を見た思いでおれはまた少し悲しくなる。
「宇野はいつもそうしてんの?」
「あたしはいつもこうしてるっす」
「立ち向かおうと思わないの?」
「何に? 傷に? 過去に? それとも目を逸らしたいっていうスキムに?」
「いやそういうの全部ひっくるめて。だってなんか、もったいなくないか? そういうことをちゃんと見すえてすみずみまで分析してなんならメス入れて解剖して、そういうところに自分が成長するきっかけってのはあるんじゃないか? 見直すことで自分をより高めることができるって思わないか?」
「体育会系っすねえ。まあ思うけど……」と宇野は口ごもる。「そうしたいとは思わないっすよ。あたしマゾじゃないんで……。フーそろそろ戻りますか?」
 宇野は欄干にギターの重みを押し付けこちらを横目にクスっと小さく笑んでいる。それで我に返り自意識過剰の皮算用にもほどがあったかと反省し赤面していると、ジャージのポケットに突っ込んだ携帯が震えた。
 メールの着信だった。柿沢からだ。『なんかこっちすげえことになってる~』という本文の下に画像ファイルが添付されている。なんだなんだと思ったらただ女の子のレギンスがずり落ちてパンツが見えて半分おしりが出てるだけだった。どうしようもないなと思いながら『(笑)』とだけ打って返信する。別に(笑)な気分でもなんでもないがこれも人情だし、と思ったらすぐにまたレスポンス。『教室にタスキ忘れたからしょーちゃん取ってきて』。自分で行けよ、と思うが宇野も一服終わったしおれもそろそろクラスに戻ろう。
「なんかおつかい頼まれた。おれちょっと教室いくわ。じゃな」
「うーい」と返して宇野はギターを背負って体育館へ戻っていく。もしかしてあのままクラスに戻るのかあの馬鹿。ますます孤立が深まりそうだ。ちなみにうちの高校には軽音楽部とかいう軟派な部活動は存在しない。公的なギタリストはみなかなりの巧者で弦楽部所属だ。そして宇野は英会話研究会という名の帰宅部員だった。
 おれは外廊から伸びている階段を下ってそのまま校舎へ向かう。駐車場とプレハブの部室棟を通り越し、渡り廊下をくぐって非常口から校内へ入ると、ひんやりした空気がうなじの産毛をゾワっと立たせた。悪寒だ。汗かいて風邪でも引いたかなまずいなあと独語して明かりの消えている階段を二段飛ばしで駆け上る。二年C組の教室は二階の西から三番目だ。開けっ放しの引き戸から整然と机が並んだ室内に入る。
「あ、来た」
 知らない女の子が立っていた。肩口くらいまでの髪をいかにも適当に頭の上でくくってる。ジャージの襟の色から同学年だとわかる。だけど少なくとも同じクラスの女じゃない。おれは咄嗟に「盗難」という単語を思い浮かべる。すぐにいやいやと思いなおす。それはいくらなんでも早計だ。向こうにしてみればおれだって怪しく見えているだろう。
「あれ? クラス違うよね。ここになんか用? それとも間違えた?」
「ああ? クラス違くねえし」と顎を上げて物騒な感じで女の子は聞き返してくる。なんだ何か不味いこといったかおれ。言ってないと思う。不登校とかたぶんおれのクラスにはいないし、この子の顔にも見覚えはない。戸惑うおれに、続けて女の子は「つかおまえ果原でしょ?」と投げつけるように言葉を飛ばした。
「うん……え? おれに用事?」
「あーまあそう」
 答える素振りがやたらに気だるく見える。女の子はそのまま軽いステップで黒板に近づいていく。チョーク箱からチョークを、そしてカットソーにしてある改造ジャージのパンツから手袋みたいなものを取り出す。その足元をよく見たら土足だ。まあおれも裸足だからどっちもどっちかもしれないが、とか思っていると、不意に女の子は両手を挙げた。むしろ構えた。毎日おれも鏡で見慣れているそれは紛れもなくファイティングポーズだ。前傾のクラウチングスタイル。手にはめた手袋は良く見ればオープンフィンガーのグローブだとわかる。
 女の子は生真面目な顔で言う。
「じゃあシャドウ開始ね」
「え?」
「かーん!」
 言いざま髪が跳ね上がるのが見えた。えー何何意味わかんない。心底混乱しながら後退すると背中がすぐ壁に当たる。女の子はちょっと信じられないくらいのスピードでこっちに突っ込んでくる。速、と頭で感想が浮かんだ時にはもう顔面の中心でゥアンと痛みが弾けていた。鼻の付け根がひりひり痛む。殴られた? おれ殴られたのか? 知らない女の子に?
 正確には殴られ続けている。オープニングヒットを奪った左からきれいに揃えられた右が飛んでくる。身長の関係でアッパー気味になっている拳はおれの左顎を凄く見事に捕まえて冗談抜きで腰ががくっと落ち込んだ。ぞっとするほど近くに女の子の顔が来る。眼がマジだ、と一瞬だけ思う。歯列からこぼれる呼気を耳が聞いたらまた左のショートアッパー。今度は真下からかち上げられて、危うく舌を噛むところだった。そうだマウスピース、ていうかヘッドギア、グローブ、試合と連想ゲームをする間にも左左右左右とおれはサンドバッグ状態で殴られ続けている。手加減は全くない。躊躇もない。殴られること自体はそりゃ部活がボクシング部なんだから慣れているが、初対面の女の子に有無を言わさず洗練されたコンビネーションを打ち込まれるのは初体験だ。初体験には恐怖が付きまとう。おれは殴られながら痛みよりも状況の異様さに恐怖し始める。
 なに。
 なんだこれ。
 おれはなんで殴られているのだ。
「っは」
 息継ぎのためだろう。怒涛のラッシュが途切れた。女の子がスタンスを広く取るのが明滅する視界でかろうじて視認できる。まだやる気だよこの子。さすがにおれもようやく構えを取る。野郎反撃だぜとばかりに大振りの右フックでびっくりさせてとりあえず距離を取ろうと思ったら、自分で打っておいてそのあんまりなとろさにびっくりした。真面目に足にガタが来ている。おまけに女の子は下がるどころかお手本みたいにきれいなダッキングで右腕をくぐった。右下腹部に刺さるような鈍痛。歯を食いしばってなかったら情けない声が絶対出てた。が、そこはウエートの差がある。我慢の子でようやく止まった標的に左を打ち下ろす。あ顔はまずいよな、と反射的に思ってももう遅い。
「うわっごめんっ」
 謝る声より先に、紙一重で女の子はスウェーしていた。髪からシャンプーの香りが拡がっておれの鉄臭い鼻腔をちょっと和ませる。とりあえず距離距離距離と唱えながらおれも手打ちの左を何発か打つがかすりもしない。何この子ウィービング超上手い。パンチぜんぜん当たらない。何者だろう。女子プロボクサーとか? 辻ボクサー? どっちにしろこれはどうやら女の子とかそういう可愛い生き物ではない。普通に暴行魔だ。
 おれは拳をつくる。肩でリズムを刻む。下半身はちょっともう信用できないのでベタ足で打ち合うしかない。とりあえず体格が違うんだから次に近づいたところでクリンチの要領で捕まえてしまおう。痴漢扱いされようが鼻血出てて説得力がなかろうが女の子にノックアウトされたり女の子をノックアウトするよりましだ。多少食らってもとにかく組み付こう。そう決意すると、女の子はずっと握り締めていた拳を緩める。すわゴングか、と思いかける。
 違う。
 まだ二分には足らないと体内時計が言っている。
 女の子の手からすっかり粉末状になったチョーク粉が飛び出した。おれの顔面に向かっている。さすがに眼は閉じないがあまりに意想外でおれはおおげさに仰け反った。仰け反って、あやばい、と思った。体が完全に開いている。女の子はここぞとばかりに踏み込んできている。おれは顎を引いて歯噛みする。拳は骨ばって固く技術は本物だ。けれどもそれはやっぱり女の子の手でしかない。いくら渾身だってただ耐えるなら余裕だ。そのはずだ。おれはおれのタフネスを信じている。女の子は右半身を引いて右足を思い切り引き付けて……なんかストレートじゃなくてこれまるでハイキックみたいだね、って思っていたら脛が美しい曲線軌道の先におれの左側頭部を捉えていた。眼が眩んでパパッと光が閃いて鼻の奥では火薬のにおい。
 おれは尻からワックスのよく効いた床にへたり込む。
 八秒は立てそうにない。
「ずるくね?」と敗者の上目遣いでおれは言う。
「なにが? あ、二分経った」女の子は意に介さない。
「ずるいよ……もう好きにして」
 実際は立てないこともないが、立ったらまた続きが始まりそうで立てない。それに肉体的ダメージより女の子にのされた精神的ショックが大きくて、おれは半泣きになってうつむく。頭の中にはまだ蹴りの残滓が居座っている。しかし女の子はおれの衝撃を意に介さず「へたりこんでんじゃないよ」と鞭打ってくる。窓の外では歓声と放送委員のリレー実況と剣の舞が重奏している。おれは教室でほこりを巻き上げて女の子にぶっ飛ばされて這い蹲っている。状況をきっちり理解するとますます泣けてきた。
「いやもう嫌だ。なんなのおまえ。なんでいきなり殴りかかってくんの? つか何者?」
「うーんそういうの答えてるヒマちょっとないな。ごめんね。それよりそっちが質問に答えてくれない? あたし勝ったし」
「なに?」いつからそういうルールになってたんだろう。
「あんたよしひこ知ってる?」
 思いがけない名前におれは絶句する。ある意味殴りかかられたときより驚いている。よしひこ。その名前はもちろん知っている。目をみはるおれをよそに女の子ザウイナーは言葉を続ける。
「宗田よしひこは知ってるよね。知ってるはずだよね。もちろん宗田甲子の子供のよしひこのことだよ」
「え、なに、よしひこのこと知ってんの? なんで?」
「なんでとかいいからとりあえず全部聞け」女の子は有無を言わせない。「あんたはこれからよしひこのことを助けるんだよ。すぐによしひこがいなくなるからそれをあんたが探すの。方法はなんでもいいし、誰を頼ってもいいけど、あんたが必ずよしひこを見つけて家に連れて帰るんだよ。色々と理不尽なことや不思議なことやむかつくことがいっぱい起こるだろうけどそれも全部飲み込んでよしひこを見つけてね。お願いだよ。あたしはあんたに勝ったんだから、あんたはあたしの言うことをちゃんと聞くんだよ。絶対だからね」
 は? そんな矢継ぎ早に頼まれても今のぼくには理解できない。
「え何よしひこどうしちゃったの? あいつなんか危ないの? てかなんでそれでおれのこと殴ったの?」
「これから危なくなるし危なくなるのはたぶん防げない。まあ試してみて。ぜったいに諦めないで追っかけ続けてね。あとペニスカッター……あ、もうだめだ消えなきゃ」
 急に女の子はあたふたとしだす。おれは呆けて彼女を見やる。双発のスターターピストルがグラウンドで打ち鳴らされている。
「いやペニスって何。そもそもおまえ誰?」
 わっわっわっと慌てふためいて女の子は「お願いね」とおれに繰り返す。おれは重ねて「おまえ誰」と問いかける。答えは声だけを置き去りにして与えられる。
 女の子はおれの目の前できれいに消えてしまう。
 消滅だ。まばたきひとつしたら頭からつま先までどこにも残っていない。
「……」
 急激に静まり返る教室でおれは相変わらず負け犬のポーズを取っている。暴力とは別種の恐怖が背筋を這い上がってくる。おれはなにを見て、なにに殴られ、なにと話していたんだろう。しこたま殴られた顔面に恐る恐る手を伸ばすと、痛みもないし腫れもなければ血も出ていない。きれいなものだ。まるで殴り合いなんてなかったようだ。ただ頭の中には絶対にあのインチキなハイキックの残響があるんだ。ハウリングに紛れて結局捨て台詞になったおれの質問に対する答えが何度も繰り返される。「おまえ誰」。

「果原少女」

 いやそれおれの名前じゃん?

 2

 宗田よしひこは五歳児で、宗田甲子の子供で、宗田甲子は六年前の二十三歳のおり当時十一歳だったおれと性的な関係を持っている。はいつまりこの人がおれの初体験の相手でありおれのフォビアの原風景なわけですね。
 十一歳のおれはふざけた名前のせいもあり内向的に鬱屈した子供だった。それでも人並みに近所のピアノ教室の『せんせい』であった甲子にいとけない恋心を抱いており、妹が甲子の教え子であることを幸いに宗田家へしょっちゅう入り浸っていた。音大を卒業したばかりで結局本格的にミュージシャンとして生きていくことに挫折した甲子は、「だったら子供好きだし子供にピアノでも教えながらのんびり暮らそうかな」とありがちな方向に軟着陸したらしい。資産家の宗田夫妻は長男を無事社会に送り出し、残った娘を養う程度の財力は充分以上にあった。甲子は見目も悪くなかったし節度を持った男づきあいも何度かしていたから、まさか大学卒業の一年半後に彼女がシングルマザーになろうとは誰も思わなかったのだろう。

 今でもたまに思い出しては欲情と吐気と罪悪感に悩まされる最初の接触は、おれと妹が両親不在のため宗田家に宿泊した夜中、宗田邸のトイレで起きた。夜中といっても小学生の時分だからせいぜい二十三時か二十四時かせいぜいそのあたりだろう。おれは寝ている妹と同衾していた甲子を起こさないように客間を出、ふらふらトイレに向かい、ドアを閉めようとしたら甲子がその狭苦しい個室に滑り込んできた。半ば眠ったままのおれはびっくりはしたが声を漏らすことはなく、甲子もそれを望まなかった。甲子は放尿を続けるおれのペニスに指を添えると尿が完全に出切るまで包皮越しの陰茎をていねいに、優しく、指先で撫でていた。おれは完全に動転して、いまだ名状をもたないいやらしい予感に硬直していた。放尿が終わるとしゅっしゅっと先端を指でこすりながら甲子はいつも通りの優しい声で「おちんちん気持ちよかった?」と聞いてきた。おれはだんまりだった。凄まじく恥ずかしく異様に喉がかわき浮かされそうに顔が熱かった。甲子は構わず「おしっこしたらきれいにしようね」と言いながらおれの包皮を剥いて亀頭を露出させえらの張った部位をティッシュで静かに清拭しはじめた。すでに硬度を持ち始めていたおれの貧弱なペニスは、刺激を受けるとすぐに充血して完全に勃起した。おれはそのときすでにオナニーを知っており精通も迎えていたし、セックスの知識も不完全ながら備えていた。震える声で「せんせいセックスするの?」と聞いた。甲子は「しないよぉそれは好きな人とじゃないとしちゃダメー」と笑った。おれはその期に及んでも彼女に好意を告げることはできなかった。
 だけど結局おれは甲子に犯された。……犯されたというのは単なるエクスキューズで、十一歳のおれは到底純真無垢な子供ではなかったし、一丁前に性的興奮を確かにおぼえていた。条例的には甲子は真っ黒だろうが、そのためおれは一方的な被害者に甘んじることができない。勃起していたペニスを持て余して黙りこくるおれをよそに甲子は動き続けた。陰茎を長い指で擦り、するっとパジャマとブリーフを脱衣させた。甲子もパジャマとパンツを脱ぎ、洋式便座に腰を落として足を開いた。その前に跪かされて、暖色蛍光の下で芳香剤の金木犀の香りをかぎながらおれは複雑極まりない形状のヴァギナに手を伸ばし、甲子の言うなりになって舌を伸ばした。鼻息とうめきの混じった甲子の声を聞きながらおれはほとんど動物になっていたと思う。それで、妙な生臭さとこもった熱気を感じながら、おれは咥内に入り込んできた陰毛をぺっと吐き出した。それを見た甲子はふふっと笑ったのだ。
 見上げたおれの目に逆光を背負って甲子の顔が見えた。……それはまったく日の下で、ピアノの前で、道端で、おれをどきどきさせた顔と寸分違わなかった。現実的にはただ過去を追憶する際の美化が作用しているだけかもしれないけれど、だからおれは「空いてるからちょっとここ出てお兄ちゃんの部屋へいこっか」と言われてもすぐに頷いたんだ。
 こうして期せずおれはある意味で宇野ティカ言うところの『ホロ苦いハツコイ』を昇華させる僥倖に恵まれた。が、甘酸っぱさや切なさはほとんど意識されなかった。頭の中は女性器よりも『せんせいの』おっぱいや『せんせいと』セックスするという優越感、それを俯瞰する独特の冷静さ、ことが露見することへの漠然とした恐怖感といったもので飽和していた。甲子の今は家を出ているという兄、宗田瑞樹の部屋は片付いており、ベッドにもマットレスが敷いてあり、小走りに寝台へ近づき子供っぽい仕草で飛び込んだ甲子が「おいでおいで」するのを固唾を飲んで見送り、おれはぎくしゃくと彼女へ歩み寄り、あっけらかんと脱ぎ散らかされたパンツを眺めやりながら、頭ごと捕まえられて抱き寄せられ、年の割りに薄い胸に顔を寄せて、甲子の体臭を嗅いだ。暗闇の中で上着の下に手を滑り込ませ、すべらかな皮膚の上で唯一指にかかる突起を探り当て、脳の奥の奥まで一本のチンポと化したおれはかすれた声でまた聞いた。
「セックスするの?」
「セックスはしない」
 甲子は優しく囁いた。
 言動と裏腹におれのペニスに手を当てて、彼女のヴァギナへ導いた。当たり前だが徹頭徹尾ヘゲモニーは甲子にあった。そこは熱く狭くぬかるんでいやらしかった。底なしでぎゅうぎゅうとおれの下腹を引き込んだ。射精の瞬間に内臓を抜かれるような恐怖を感じたのを今でもおぼえている。クモだかカマキリだかにそんな交尾をするやつがいたから、きっとそれを連想したんだろう。
 全てが終わって全身がぐったりして、汗は小さかったおれから熱狂を取り上げてしまった。体の横にある甲子の体温、肌の質感に産毛の手触り、性器の際立った複雑さ、ヴァギナをティシューでぬぐう仕草……、あくまで変わらない表情を丸ごと再確認しておれはとにかくひどい後悔に襲われた。ぐつぐつと喉の付け根で何かが煮えだしたのはそれからだ。しかしそれは、甲子に誘われてその夜二度目の入浴をし終える頃にはさっぱり消えていた。おれは浴槽で面白半分にペニスをもてあそばれてから再び射精し体を乾かし寝床に導かれるまで、始終亡羊としていた。
 その後、二ヶ月の間に何度かおれは甲子と体を重ねた。するたびにおれの中で宗田甲子という女のイコンは褪色していった。なんだかこう言ってしまうと凄い身勝手というか、「ああやっぱり性欲かよ?」とおれは自分に結構がっかりしてしまうのだけれど、虚心で打ち明ければ間違いなくこれが本心なのだった。あこがれたピアノ教室の先生と、興味本位にあれ~小学生でもペニスがエレクトするんだ~じゃあやってみようかな、という雰囲気でしかなかったあの夜の女とが、だんだんと乖離し、すぐに後者の印象でおれの『宗田甲子』の記号が埋められてしまったのだ。それはそれは悲しいお話である。
 でも悲しいことはその先にこそ待っていた。
 そういうわけで、おれは日ごと宗田甲子という存在を倦厭するようになっていった。それでも味わった快楽は確かで、肌を合わせることには単なるオーガズムとは違う何かを与えてくれた。だから都合よく甲子のもとを訪れた。甲子も何もいわずおれを受け入れた。いやむしろ、おれが甲子の行為を受け入れたのか。幼さはこの場合言い訳にはならないだろう。一時的にせよ嫌悪感が快感に勝った時、それが甲子への決別の時だろうと、なんとはなしに感じていた。
 だけど破綻は都合よく心の準備を待ってはくれず、ただ内的な精神の処理をすればいいという簡単なジュブナイルにも納まりはしない。しかるべき理由でしかるべき結果がおれに突きつけられた。
 甲子と関係して三ヶ月ほど経ったころ、ピアノ教室をしばらく休む旨が宗田家から親を通して妹に通達があった。おれは内心それを幸いに思い、さらに都合がいいことに甲子は宗田家から姿を消した。両親や妹はしきりにいぶかしがっていたがおれは理由などどうでもよかった。【分離されたおれは今のおれとの連続性を失い続けて、ゼロにはならないかもしれないけどゼロにずっと漸近していくし、そうやって他人事みたいになった過去がやがて完全に黒ずんでしまえば、それは実際完治したのと同じことになる】のを期待していた。
 一年後に帰ってきた甲子はだけど、「よしひこ」という名前の乳児を連れていたのだ。
「えっうそっ先生赤ちゃんできたの!」我が家の玄関からする妹と姉たちの声が遠かった。
「そうなの~よしひこっていうんだよ~ほらよしひこお姉ちゃんたちにあいさつ~」甲子の声は耳鳴りと何ら変わりなかった。
 父親はどこにも見当たらなかった。その後も見かけることはない。甲子が消えた理由や父親がいない理由は、おれの中でとてもすんなり連結された。
 もしかして、おれか?
 おれのなのかそれは?
 真偽を確かめる勇気はない。近所で年中顔を突き合わせながら疑念を忘れ去るおめでたさもおれには、ない。つまりおれは厳密には失恋なんてしていない。甲子も誰も何一つ明言しなかったし、おれに何かを伝えてくるようなこともなかった。意味ありげな素振りもなかった。チョキチョキっとあの夜以前からその日の間をカットして繋いで編集して、いつも通りに愛想を振りまいた。
 生後三ヶ月のよしひこはとても可愛い赤ん坊だったらしい。でもそいつは悪夢みたいにしか思えなかったのだ。顔も、名前も、大した問題ではなかった。よしひこを抱いた甲子を見た瞬間十二歳のおれは嘔吐した。三日くらい何も食べられず吐き続けて熱を出し、病院に運び込まれて栄養剤を打たれた。そしてお見舞いに来た甲子とよしひこを再び目の当たりにして、衰弱しきったおれの意識は、なんだかグロテスクに変性してしまったというわけでした。
 果原少女はクルクルパーになった。その後名前でからかわれることもそんなに気にならなくなった。親も恨まなくなった。人に優しく出来るようになった。ボクシングを始めた。射精できなくなったが、そのぶんの情熱を他にプールできた。高校に上がってしばらくすると気は狂っているが表徴は可愛らしい恋人をつくることもできた。順風満帆で、いいことづくめだ。
 これでいつか宗田よしひこを誰にも知られないように殺しても、おれに疑いがかかる可能性は減る。
 まあ、よくある話なのかもしれない。

 3

 結局あのボクサー少女は、疲れたせいで見た錯覚か、白昼夢のたぐいだと思うことにした。おれは結構幻覚に接する機会が多い。あれくらい鮮明なのはさすがに初めてだが、格闘漫画とかを思い出すと別に不思議なことではない気がする。一流のアスリートはその優れた集中力で仮想敵をつぶさに空想するというし、おれもその域に偶然達しかけただけなのかもしれない。夢オチが嫌われるのは犯罪と同じ理由で、倫理道徳に反し安易で便利すぎるせいだ。だから納得のために用いる理由としてはごくごく健全である。

 体育祭は予定調和的なトラブルと不手際に飾られつつ、おおむね順当に消化された。盛り上がる一部の生徒とそれを遠巻きにする生徒は競技の全てを終えて、倦怠と脱力に支配されている。フィナーレはお決まりのフォークダンスだが音楽が鳴っても誰も踊らず、回らず、ただ停止した円陣が五つグラウンドに置かれているだけだ。あれ馬鹿じゃねーのと指差して笑えればまだ幸いなほうで、それは本当に寒々しいだけの光景だった。マイムマイム、コロブチカ、オクラホマミキサーの順で曲は流れていく。 
 おれと柿沢もその他大勢と同じだった。空回りする音楽をこそ哀れに思いながらも動かず円陣の一部に納まっている。「オリンピックの輪っかじゃねーんだぞ!」と実行委員は隣の円陣で気を吐き周囲にダンスを促すが無駄だった。うまいこといってんなあ気の毒だなあとは思うけれど、シャイな現代っ子に手を繋ぐ、あるいはそのふりをするほど密着せねばならない不特定多数とのスキンシップを要求するのもまた気の毒だ。ここに定石というスキーマの紡ぐ陥穽がある。なんでも定番にしとけばいいってものじゃないのだ。奇を衒うために奇を衒うよりはましだが。
「ショウちゃん知ってる?」ジャージを腰ではいて立ち竦む柿沢秀人が言った。「マイムマイムって井戸から水を汲んで喜んでる歌なんだってよ」
「ふーん」と一応感心しておく。ものごと全般に対して、おれはその由来にほとんど興味を抱けない。イザヤ書だろうが行商人の歌だろうがターキィインザストロゥだろうが結局それはただの起源でしかないと思う。記号の意味は常に新しく上書きされていく。大勢がフォークダンスのスタンダードナンバーと受容しているならそれはそれでいいのだ。
 そんな感じでぐだぐだ気まずいラストプログラムを右から左へ受け流していると、向かいの円陣でやはり棒立ちする伊東美央と眼が合った。普段流している髪を二つに結って丈の大きい上着を着込み、控えめにこちらへ手を振っている。おれも小さく手を振り返す。心温まるコミュニケーションだ。「ラブラブだねー」と柿沢が冷やかしてくるが気にはならない。むしろラブラブとか言うほうが恥ずかしい。死ね。
「いいよねー伊東ちゃん。落ち着きがにじみ出てるよね。ショウちゃんいい物件に眼をつけたよ。おれ結婚するならああいう子がいいよ」
 柿沢も部活の仲間も知っていることだが、美央はおれのいわゆる恋人だ。もっとも美央にとってのおれは、恋人というよりは安定剤であり、安定剤というより防波堤であり、防波堤というよりパートナーという間がらだと認識している。というのも伊東美央は周囲にはひた隠しにしている精神的失調があり、それなりにドラマを孕んだ展開の末おれがその病状を知り、以来彼女をフォローするかたちで恋人という役柄に納まったのだった。もちろん美央とセックスはしたことがないし、これからしようとも思えないが、対外的には恋人として機能しているんだろう。そういう不健全な形態でも今のところおれたちはうまくやれている。少なくともおれはそう思っている。愛情だってちゃんとある。
「まあそうだな。おれも概ねそう思う」ありえないとわかってるからこういうことが言えるのだが、柿沢は素直に反応した。
「ショウちゃんのそういうとこ格好いいよ。二人ともいつまでも幸せにね。結婚式にはおれを呼んでね。それでできればおすそ分け的におれにも女の子紹介してね」
「おれ妹が一人と姉貴が二人いるんだけどどれがいい?」
「……写メとかあるなら見せて」
 柿沢のこういう慎重なところがおれも格好いいと思う。

 閉会と解散を経て白けた空気はきれいに払拭された。おれも今日は部活がない。正面玄関で柿沢とわかれ、校門で美央と待ち合わせ、駅まで送る。いつものことだ。帰路では美央は二度『未右』になり一度『観左』になった。体育祭でずいぶんストレスが溜まったのだろう。
 ぎりぎり駅ビルに引っかかった残照を乱反射するメタリックなモニュメントの足もとでは、『幸せおじさん』という愛称で親しまれるピンクハウス系の女装に身を包んだ中年男性が「ハッピィィィ! みんなハッピィィィ! 人類ハッピィィィ!」と奇声を上げている。気持ち悪いとかを通り越して悪夢みたいなビジュアルだが、もう慣れているので通行人もほとんど反応しない。腰をどっしり据えて両手を突き出すポーズは、『幸せ波』を世界に供給するための構えらしい。おっさんは何年か前に現れたこの駅の名物で、最初は芸人だとばかり思われていたが今ではただの頭がおかしい人として景観の一部になっている。まあギター弾いたり唄ったり漫才やったり靴磨いたり踊ったりする奴だっているんだ。女装して奇声を上げる人くらいいたって構わないだろうとみんな受け入れたらしい。
 と思ったら今日のおっさんは「おっさんてめえうるっせえよ! 人幸せにしてえなら金でも撒けよ!」とB系の兄ちゃんに掴みかかられている。すごい正論。
 ここであわや白昼の惨劇かと危惧するのは、しかしもぐりである。おっさんは慌てず騒がず襟首の手を取るとすぐさま合気道の小手返しみたいな動きで兄ちゃんを無力化し転ばせ、手の平をかざして「金ではほんとうの幸福は変えないんだよ! 私はそれを知っている。受けて! 特大! ハッピィィィ!」と叫びだした。怖い。もう名物とか奇人といより妖怪のようだ。兄ちゃんもそう思ったようで、すぐに距離を取り何度も振り向きながらどこかへ行ってしまう。
「おじさん元気だねえ」と一部始終を眺めた美央が言う。
「仕事なにしてるんだろうな」おれは幸せおじさんを見るたび同じことが気になっている。「もしかしてあれが仕事なのかな。そうなら働くってつらいな……ほんとつらいな」
「ごはん食べてく?」と柱時計を見ながら美央。予備校の講義まではまだ間があるらしい。
「いや金ないし」
「蕎麦ならおごるけど」
「くれるならもらうけどまた蕎麦かよ」美央と帰ると三回に二回は蕎麦を食べている。いろいろと安定しない女だがどんな美央でも蕎麦を大抵好んで食べるのだ。「でも立ち食いはなぁ。あそこは戦士たちの憩いの場だと思うよ」
「わかったわかったちゃんと座るお店知ってるから。まかせてよ」と請け負い、ふと神妙な顔になって、「……果原くん」
「なに?」
「ふふ、呼んでみただけ」
「こいつー」
 頚骨へし折りてえ。もしくは誰かおれを殴ってくれ。でも我慢我慢だ。小腹が空いたし蕎麦は食べたい。改めて見る制服の美央は女子高生にありがちなやぼったさをまとっているが、こいつの場合それも計算づくであることが多い。せせら笑うように肩を震わせ、衆人環視の駅前広場でくっと顎を上げてきた。
 すぐにキスをする。そういう約束なのだ。はじめは嫌悪感や興奮を伴ったけれど、今では何の感慨もない。少し唇が荒れているなと思った。美央愛してるよ美央。
「じゃ行こうか」
「ごちになります」
「なりたまえ」
 帰宅ラッシュに湧く構内では誰もが急ぎ足だ。釣られそうになるおれの足を止めたのは明後日に飛ぶ美央の視線だった。二重瞼におさまる両の瞳がロータリーへ続くタイルの路面へ注がれている。そこにはグラフィティアートと呼ぶにはお粗末過ぎる落書がでかでかと記述されていた。

 ← ペニスカッター参上!

 ペニスカッター。
「なんだあれ?」
「なんだろう?」平板に美央は言う。
 おれの連想は当然あの白昼夢へ結線される。
 嫌な文脈で嫌な符合がやってきた。
 落書の矢印が示す先、お立ち台の上でたたずむ子供の彫刻がそこにおり、子供の両足の付け根の中心、つまり陰部は深く深く削り取られている。石灰質の断面を覗かせる傷跡は別に痛々しくはないが、よりによってその箇所を穿鑿する意図は明らかに悪趣味だ。なるほどペニスカッター。なんの捻りもないし品もないネーミングで、おれは気分が悪くなる。そもそもあれでは、カッターというよりクラッシャーだろうが。
 そこで、
「二人ともカストレーター知らねーの?」
 と、背後から声がして、おれはやや驚きながら、美央は平然と振り返る。
 びっくりするほどきれいで背が低くきつくブリーチされた長髪の女の子がそこに立っている。前髪の下の大きな瞳がおれを覗き込んでいる。ごてごてとアクセサリのついたタイトなジャケット、デニムスカートとカラフルボーダーのタイツを合わせており、休日の原宿あたりでならば映えそうな衣装だが、ここは原宿ではないし今日は休日でもない。人がごったがえす駅前で、明らかにこいつは浮いている。服装の派手な色合いももちろんだが、群を抜いて整ったスタイルが周囲への埋没をかたくなに拒んでいるようだ。ほんと芸能人みてーに顔小さいなこの子。
去勢者(カストレーター)知らねーの?」と重ねて女の子は聞いてくる。
「おれらに言ってんの?」昼間のこともあるので、美央の反応を確かめながら問い返す。「カストレーター? ペニスカッターじゃなくてか?」
「うんカストレーター。ペニスカッターじゃプロレス技じゃん」にっこり笑う。髪もさらさら揺れる。すげえ可愛い。なんだこの生き物。「お兄さんたち今なん歳? おれは十四。中三だよ」
「おれは十六。こっちは十八」と美央を示す。おれよりも誕生日が早い上、諸般の事情で美央は高校への入学が一年遅れているのだ。そのあたりの説明を他人にする必要はないので、年次は言わずにおく。
「ああそうなんだ。んじゃちょっと範囲外だね。まあいいや。ふたりはつきあってんの?」
「え、別にいいけど、なんでそんなに詳しく聞きたがるんだよおまえ」
「はは。別にいいなら別にいいじゃん?」ぐりぐりと大きな眼を回しながら女の子。よく見れば碧眼で、カラーコンタクトをしているとわかる。つくづく装飾過剰だ。おかげで印象がぶれて落ち着かない。「ふーん。でもそっちのお姉さんよりおれのほうが可愛いよね」
 はあ? と顔を歪めそうになる。せずに済んだのは美央が先駆けて答えたせいだ。「そうだね。ホント可愛いね」と美央は言う。
「でもきみは男の子でしょ? あたしより可愛くてもあまり意味ないね」
「は?」と今度こそおれは顔を歪める。
「そうだよ」と女の子……じゃないのか。男の子は肯定する。いやにあっさりしている。「見ただけじゃふつうわかんない人多いんだけどな。骨格とか詳しい人はだいたい一発で言い当てるけど、まあ隠してるわけじゃねーし、そもそも可愛いに性別関係ねーだろ。負け惜しみすんなよ。……にしても、よくわかったなーお姉さん。んん? あっ、ふーん……てかあんた、どっかで見たと思ったら、伊東美央でしょ。三つ子の真ん中の伊東美央」
「そうだけど……」
 尻すぼみに美央は頷く。目線が泳いでおれに向かう。この子の性別と美央の名前と、どちらがよりパブリックかと聞かれても判断に迷う。ただ美央が元々三つ子で今は一人っ子であることは、知っている人間ならば教えられずとも知っていることだ。
「そっちはなんで美央のこと知ってるんだ?」おれは言う。
「前に仕事でちょっとね」いたずらめかして男の子は微笑む。やはり女の子にしか見えない。
「仕事?」
「質問ばっかだねお兄さん。ちっとうぜーぞテメー」さっと切り替わるように形相が剣呑になる。だがそれもこちらがしり込みした瞬間にぱっと華やぐ。全ては一瞬だ。忙しいオンオフにおれは追従しそこなう。「まあいいや。おれは便利屋の篠原朋太。いまはカストレーターを探してる。興味があるんなら二人ともちょっと見ていけばいいよ。……おーい! てめーらこら! もう時間だぞーはい集合だよ集合! あちまれ!」
 篠原朋太と名乗った女装男が唐突に手を叩く。白く小さいわりに手の平は慮外な大音を立てて、ロータリー一帯の耳目を集める。するとあちらこちらでたむろしていた中高生から大学生と思しき連中が、ぞろぞろと雁首そろえてこちらにやってきた。年齢層も性別も様々で、中には篠原同様性別不詳なやつもいる。中でも一際目立つのは、どこからか湧いてきて篠原の両脇を固めた二人の大男だ。黒人と、恐らくは兵役上がりなんだろうなと連想させる韓国人。どちらも二メートルに届きそうな天を突く長身でえらく体つきがいい。挟んでいるのが全体的にスケール小さめな篠原だから尚更だ。格闘技をやっている男の子の性でおれはほとんど反射的におれと彼らとの戦力を比較するが、今日妄想とはいえ女子に負けた野郎が相手取るにはいささか以上に荷が重い。逃げなければ一分以内で畳まれてしまうだろう。何しろ双方一人や二人は殺してそうな雰囲気だ。
「なにこれ」と美央が言う。おれこそそいつを聞きたいんだ。三十人近い集団に囲まれるかたちになって、おれたちは気圧され、迂闊に動けない。
「なんだ今日は集まり悪いな」と篠原が一通り周囲を見渡して言う。「いや平日の夕方にいきなり集合とか無茶だよー」と篠原の前にいる女子高生ふうの女の子が言い、「みんなバイトとかっしょ」と隣の男が賛同した。篠原は頷いて、「それもそうだな。まあ仕方ない。じゃあちゃっちゃと説明するから適当に用件だけ聞いとけ。つってもこれ見ればわかると思うんだけど」
 そう言って指し示したのは例の去勢(カストレート)された彫刻と、その足もとの落書だ。外野がざわめき、「ああこれかー」という声がどこからとなく上がり始める。
「やっぱ結構知ってるやついるな。参上とか今どき馬鹿でもやらない落書してる上に程度低いネーミングで早速げんなりしてるだろうけど、このペニスカッター……まあちんちん斬り魔でも宮刑魔人でもいいんだけど、下品だからとりあえずおれはカストレーターと呼ぶ。……今回はこいつに追い込みかけっから」
 穏やかでない単語が出た。おれは篠原をうかがう。近づこうと一歩進むと、控える黒人のほうが露骨に体で遮ってきた。おまけに手荒に肩をついてくる。身を捻って腕を交わすと、黒人は首を振りながら完全に立ちふさがってくる。あの肉体性能にひたすら恵まれた人種特有の圧迫感を受けて、おれはカチンときた。
「あ?」
 確かに雰囲気はある。上背で十五センチ以上、ウエートも二十キロ近く離れていそうだ。だがだからって不当に行動を制限されるいわれはないだろう。短い気に火がついて勝手にアドレナリンの分泌が始まりかけるが、そもそもいまは美央が一緒だし、どんな場合でも荒事は三番目くらいに取るべき行動だ、と思いなおす。臆病風が吹いたともいう。勝てる気とか全然しないし、今は控えよう。だいいちおれはとんだへたれ野郎なのだ。女の子に負けちゃうくらい……。分を弁えておこう。
「Requiescat in Pace」とだけ遠吠えしておく。黒人は無表情。すごすごと引っ込むおれにいつの間にか篠原が流し目をくれていて、フフリと笑う。やっぱりどうにも男の仕草には見えないがそれはもういいだろう。こいつはとにかく、男なのだ。
「血の気の多い人がいて怖いねー」と篠原が改めて多勢に向き直る。「が、このカストレーターのやり口もけっこう来てるぜ。確認されてるかぎりこいつが最初にこの市を中心にして活動を始めたのは三年以上前だ。いちばん古くて五年か六年てところだが、十年まではさかのぼらない。で、なにしてんのかというと、ほんとにただ去勢するだけなんだよな。去勢ってわかんないやついるか? あら結構いるのね。おめーらちっとは勉強しろよ勉強。宦官とかも知らねーの? うっわマジ馬鹿多いな最近の若者は! あ? うっせーおれの可愛さは性別は元より世代も国籍も超越すんだよ。……まあわかんねーと話進まないから教えるけど、去勢っていうのはチンポちょん切っちゃうことだ。オカマちゃんにしちゃうってことな。ってまあ、ニューハーフも実は結構手抜き工事とか未竣工の子多いけどよ。で、こいつはこの彫刻見ても分かるだろうケド、無差別に、頼まれもせず、いろんなモノを去勢しまくってるとんだ変態チャンなわけだ。なんか質問は?」
「はぁい」と先ほど最初に茶々を入れた女の子が手を挙げる。「べつにそんなのただのいたずらじゃん? グロいっつーかキモいけどわざわざシメる意味あんの?」
「あるんだなこれがー」篠原は朗らかに笑うと、右方に控えた韓国人の巨漢に声をかける。「ヒョンス写真出せ。あー、まあ犬と猫のやつでいいやとりあえず」
 ヒョンスと呼ばれた大男は頷くと、軍人を思わせる洗練された動きで懐から茶封筒を取り出した。その中からさらに数葉の写真を取り出して篠原に手渡す。篠原は唇を器用に曲げると笑いながら言った。
「これが被害者の会から提供された資料ね。見ただけじゃわかりにくいと思うけど、要するにこういうこと。しっかり首輪のついた飼い猫やらひもに繋がれてる飼い犬までもがわけわからんうちに誘拐されて去勢手術を施されて飼い主のもとに返されるっていう意味不明な事件が続発してるわけ」
「うえっ」と先ほど異を唱えた女の子が、篠原の提示した写真から目を逸らした。
「動物虐待じゃん」「最悪」「きもい」といった声が各所でこぼされる。おれも同感だ。美央も顔をしかめていた。

「ええっ。なにこれっ」

 とそのとき、一際高い悲鳴が上がった。大学生くらいの男が、写真のひとつを見て目を白黒させている。近場の人間が興味を引かれて彼の手元を覗き込む。すると叫声が連鎖した。
「そうなんだよね」と篠原が嘆息する。「これ、去勢されてんの動物だけじゃないんだ」と彼は言う。

「人間の子供もやられてるんだよ」







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[ 2008/12/31 01:25 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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