インクナブラ

 主に創作小説を掲載します。

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準備中 

 読者には責任がない。ただ自由がある。これは存外厄介である。
 なぜ厄介なのか、何に対して厄介なのか? それは読者自身にも還るし、作品自体にも向くし、関わりがないようで作者も含まれる。
 本来読者が下す評価というのは作品に向くものだ。たとえばこんな駄作を書いた作者はうんこー、という評価すら矛先は作品から逸脱するものではない。
 なぜかといえば「作品をものした作者」というのは架空の存在だからです。いないのそんなの。いないんだったら!
 ようは、物語に接続された作家というのは作品の一部でしかないということだ。
 その意味で研究者の論ずる作家論とやらも結局は作品群の検討の角度を変えた著述に過ぎない。
 いわばこのブログ…ええと名前忘れたな、あ、インクナブラか。インクナブラね、これがまあひとつの作品とする。
 初っ端にぶち上げた二作の中編(あるいは短編)以外はろくに完結していないというこの現状! さいてえ! もう弧人とか一切反応ないしグダグダになってきたからいったん回収する! という叫びを含んだすべて。
 これも含めて『インクナブラ』という作品のマトリックスを織り成しているのである。
 むろんボタン(筆写)には言い分もある。しかしそれはこのページを訪う人とはまったく関わりのない事柄である。

 翻って作者には、というか個人的に思っているだけだが、物語に対していくばくかの責任がある。
 責任は完結、という体裁では必ずしもない(それが最大であることは否めないが)。
 その作品に対して言及し続ける、あるいはされ続ける責任である。

 あらゆる駄文はおれの文だ。リハビリ?実験?雑文?すべて意味がない。すべておれのエッセンスだ。どだいあらゆる作者の作品に対する言及はいいわけであり、未練がましい解説であり、負け惜しみであり、照れ隠しだ。しかしそれは身を切って吐き出すからこそのエクスキューズだ。作者は作品ですべてを語るべきだとか、思ってはいるが実行は無理だ。語らずにいられるか?語るのが好きだから書いているのに!?ここで書かずとも思っている。頭の中で思った時点でそれはもう既述のテクストである。なぜなら物語による所産はすべて読者のものだからだ!おれの中にはおれを批評する読者がおりそいつはおれにとってもっとも近しくもっともむかつく読者なのだ!!

 みたいな。
 こういう仕事帰り(休日なのに!)の深夜のテンションで書くと後悔しそうな文章をあえて残すのも、せっかく書いたのに消すのはもったいないなあ、恥ずかしいけど、という明日の自分を批評する筆者/読者の存在を前提とした行為である。

 というわけで近々なんか終わった作品をあげる。もしくはひと段落させる。タイムリミットは今月まで。
[ 2007/11/19 02:24 ] 日記 | TB(0) | CM(0)

ポッポッポー 

 まず眠らない体が要る。
 次に衰弱しない心である。
 そして広い寝床。
 この三つがあれば十二分だ。
 私はモーレツな働きマンならぬ働きマシンとして、パブリックビースト(タフマン)のごとく大車輪の活躍をしてみせよう。
 しかし現実にはそうもいかない。
 水気を失った花弁のように、やる気は色あせていく。
 補充が必要だ。
 たとえば、没頭できるコミック。
 敗北感に打ちひしがれるようなノヴェルス。
 銀幕と向かい合って、ただ絶句するような映画。
 毒づき、半可通のうがった批評しか許されぬような演劇。
 あとなんでもいいからたのしいエロゲーとか。
 そんなものが必要である。
 だが時間は有限だ。
 秒針は存在感の薄さを生かして刻々と時を千切っていく。
 長針は具体的に焦燥をくれる。
 そして短針は、日に二十四たび、鳩ポッポー。

 たとえばこんな弁を立てる。
「貧しさは必要である。
 経済的、精神的、総合的な困窮が私を創作という無為へ駆り立てる。
 それ以外で生産的であってはならない。
 嬰児のごとき禁治産者でなくては、ものをつくることはできない」
 嘘である。
 エクスキューズでしかない。
 他にやることがあるときには後回しにされてしまうような……その程度の存在が、創作の価値だと認めるべきだ。
 ではただ創作者であるというレッテルのみを貼ってよしとすべきなのか。
 否だ。
 それは自負以下だ。私は創作者ではない。そんなレベルには到底、達していない。
 強いて言うなら、そう、逃亡者――
 ハリソン・フォードよりトミー・リー・ジョーンズのほうが渋くて格好いいと思う。
 そこで私は『私』へとエピグラムを送ることを思いついた。
 徹底的に自己を客観視する。
 あけすけに、構えず、気負わず、ショウ・メーカーとしての駆動を行う。
 かっこうをつけること。それはいい。
 だがしてはならないのは、照れ隠しをすること。
 筆致は澱を煮、凝らせ、抽出し、精製し、ぶちこんだものでなくてはならない。
 喩えるならば、たべられるうんこ。
 そそりたつクソのような、機関車トーマスのフィルムには映らない表情のような、忌避による空隙。
 すなわち高純度の妄想。それこそがコンセンサスを経る近道だ。

 そんな心がけをしたポエジーな未明である。死ぬほど眠い。
[ 2007/10/23 03:38 ] 日記 | TB(0) | CM(0)

きゅうかつをじょす 

 放置しすぎだ。
 何のとは言わないけども、ほとぼりを冷ましていました。
 最近はもっぱらシナリオを書いてます。
 シナリオ書いてなくてもなんかしら書いてます。
 空想は止まり木のようなものなのだ。
[ 2007/07/13 01:05 ] 日記 | TB(0) | CM(0)

モノクロームなウィークエンド 

 何が黄金だよって感じですよね。
 どこがゴールデンなのかと。
 おまえはSM嬢かよって。
 四月末ごろから周囲が騒がしくなるんです。
 ねえ、GWどこ行く? ていうか休み取っちゃう? うん、そうすれば九連休だし、タミフル(熱海に行く)っちゃおうかなって。とかなんとか。
 街に出れば人多いわなんか暑くなってきたわここで安心して衣替えすると梅雨の冷え込みで風邪引きそうだわとちっとも金色じゃないですよ。
 そもそもここにきてようやく休みが取れた時点で世間の感覚とズレてる気がしないでもない。
[ 2007/05/04 13:16 ] 日記 | TB(0) | CM(0)

赤い庭 

 ここのところ継続して「観て」いたといえるふたつのアニメの内、RED GARDENというほうの最終回を視聴しました。どうも打ち切りだったらしく、伏線のいくつかは明らかに放置されてともあれまとめた、といった感のある結末ではあったものの、概ね満足。第一話で突然ミュージカルを始めたときにはとにかく目が離せないネタ風味の感覚でいたのに、いつの間にか海外ドラマ的な展開に魅せられていました。
 動く死人やら戦う少女やらという個々の素材自体は、率直に言って陳腐だったけれど、その料理の仕方がちっとも記号的でなかったあたりに力があった。シチュエーションの非日常性に対する各人の懊悩も含んだ日常の描写に非常に力を割いていた点にも好感が持てました。
 振り返ってみると消化不良や活用されなかった伏線(特にリーズ関係)のアラが目立つので、不毛と知りつつ予定通りあと二話あればな、と思います。まあそう思わせる時点で勝ちではないかとも思う。

 さて、毎週楽しみにしていたもうひとつのアニメである妖奇士あやしのほうも打ち切りが決まっているので、最終回までの推移を地味に楽しみにします。

redg


 チームレッドガーデンのロック番長ケイトさん。未来がない?かんけねー!何度でも生き返ってやる!
[ 2007/03/14 21:04 ] 日記 | TB(0) | CM(0)


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